第一章 消毒液の匂い
「先生、どうしてあの子を助けなかったの?」
診察室の隅で、あの子はいつもそう尋ねる。
白衣の袖をめくり、俺は冷たいメスを研ぐ。消毒液と死の匂いが混ざり合うこの病院で、俺が助けるのは、あの子のような弱者ではない。俺が助けるのは、この腐りきった「構造」を、内側から食い破るための毒そのものだ。
廊下の向こうから、院長の軽やかな足音が聞こえてくる。
さあ、手術の時間だ。今夜は、この病院の心臓を止めてやる。
成瀬は電子カルテの画面を閉じ、椅子の背にもたれた。外来診療は午後五時で終わる。最後の患者は、市議会議員の秘書だった。腰痛を訴えていたが、本題はいつも別のところにある。
「院長がまた製薬会社の連中と会食してましたよ。先月は箱根の温泉旅館で」
秘書は世間話のつもりで喋っていたのだろう。だが成瀬にとって、それは処方箋よりも価値のある情報だった。彼はカルテの余白に、患者の症状ではなく、権藤の行動記録を書き足していく。誰にも読めない暗号――もう十年近く続けている習慣だ。
美咲が死んでから、正確には八年と四ヶ月。
成瀬は腕時計を見た。
医局会議まであと三十分。
権藤が「今後の経営方針について」と称して部下たちを集める、あの茶番の時間だ。
診察室を出る前に、鏡に自分の顔を映す。感情の消えた、良く言えば冷静な、悪く言えば死んだ魚のような目。美咲を救えなかった男の顔だ。
「先生、それは救済? それともただの破壊?」
幻聴が追いかけてくる。成瀬は答えない。答えを持たないからこそ、彼はメスを研ぎ続けている。
医局へ続く廊下は長い。壁には歴代院長の肖像画が飾られ、その一番手前に権藤の写真がある。柔和な笑み、白髪交じりの品の良い髪型、地域医療への貢献を讃える賞状の数々。
この男が、美咲を殺した。
証拠はまだ足りない。だが確信はとうに固まっている。あとは、権藤自身の手で、その仮面を剥がさせるだけだ。
医局のドアを開けると、権藤がすでに上座に座っていた。
「やあ成瀬先生。今日も外来お疲れ様」
いつもの、慈悲深い聖者の声。成瀬は軽く会釈し、末席に腰を下ろした。
会議が始まる。予算、人員配置、来年度の設備投資――退屈な議題が続く中、成瀬は資料の隅に、製薬会社の名前と、先週押さえた口座の動きを重ねて書き込んでいく。
権藤の資金源を断つ準備は、もう九割方整っていた。
会議が終わり、部屋を出ようとした成瀬に、権藤が声をかけた。
「成瀬先生、少し時間あるかな」
「……はい」
二人きりになった医局長室で、権藤は穏やかに微笑んだ。
「実は、来月から外来の担当を少し増やしてもらいたいんだ。君は本当に、患者さんから信頼されているからね」
「光栄です」
成瀬は表情を変えずに答えた。信頼、という言葉が、この男の口から出ると呪いのように響く。
かつて美咲も、この男の「信頼」という言葉に殺された。
部屋を出ながら、成瀬は白衣の下でそっと拳を握った。
――もう少しだ。もう少しで、お前の「構造」は崩れる。
窓の外では、夕暮れが病院の白い壁を赤く染めていた。まるで、これから流れる血の色を予告するかのように。




