第3話 揺るがない時間、揺らぐ視線
水沢一平が喫茶店「男子女子」のドアを叩くことになる、二日前――六月二十三日、火曜日のこと。
モノレールの大学前駅で降りた水沢は、ゼミ室のある三号館を目指して構内を歩いていた。
腕時計を見ると、すでに十六時を回っている。
近々発表を控えた論文の追い込みのため、いったん帰宅したあと再び大学へ戻ってきたのだ。
三号館のエレベーターで五階まで上がり、ゼミ室の扉に手をかけようとした、その時――
扉が内側から、勢いよく開いた。
「……ごめんなさい、当たった?」
思わず飛び退いた水沢の前に、見覚えのある女性が立っていた。
肩にかかる髪が乱れ、涙の跡が頬に残っている。その目は、何かを必死に押し込めるように、揺れていた。
「……いや……大丈夫」
気圧された水沢は、つい適当な返事をしてしまった。
女性は水沢を一瞥すると、無言のままエレベーターホールへ歩き去っていった。
「……おっかねえ。心臓止まるかと思った」
水沢は小さく吐き捨て、ゼミ室へ入った。
中では同じゼミの三崎恵一が、テーブル席で憮然とした表情のまま座っている。
「あれ一人? 教授は?」
「教授は打合せだからいない。もしかして入口で鉢合わせした?」
「鉢合わせたも何も、おっかねえ女、なにあれ、お前と喧嘩でもしてたの?」
問われた三崎は、憮然とした表情を変えずに腕組みをして天井を眺め、しばらく無言を貫いた。
「聞かれたくない系?」
「……いや。ちょっと、うまく言えない。喧嘩にもなってない。まあ、一種の……」
「一種の?」
「いや、止めておく。あまり人の陰口を言うのは好きじゃないんだ」
三崎は肩にかかる長さまで髪を伸ばしている。体形も華奢で、ぱっと見は女性と見紛うほどだ。
しかし水沢には、三崎が“男気”のあるやつに見えていた。
今出て行った女性に思うところはあっても、三崎は陰口を言うような男じゃない。
水沢は軽くて適当だが、三崎はその正反対だ。
二人は同じゼミの一員となってから不思議と馬が合った。
正反対だからこそ、衝突しないのかもしれない――そんな気がしていた。
「こんな時間からどうした?」
「ほら、例の論文。時間があるうちに仕上げておこうと思ってさ」
「奇遇だな。丁度俺も論文に手を付けていたところ」
三崎はノートパソコンを軽く叩いた。
「じゃ、お互いの愚痴でも垂れ流しながらやりますか」
その後二十時まで、二人は黙々と論文を書き続けた。
ただ、水沢が少し気になったことがある。三崎がしきりにスマートフォンの通知を気にしていたことだ。
三崎は普段、スマートフォンをほとんど触らない。通知音すら切っている。
その三崎が、通知が来るたび、取り憑かれたような速さで画面をタップしていた。まるで一秒でも遅れたら取り返しのつかないことになるかのように。
(珍しいな……)
水沢は視界の隅で三崎の挙動を捉えていたが、特に声をかけることはしなかった。
「そういえばお前、先月に彼女と別れてたよな」
ゼミ室内の時計が十九時五十分を示したタイミングで、執筆に飽きた水沢は唐突に声をかけた。
三崎は一瞬ガタッと席を揺らしたが、すぐ冷静になり水沢へ視線を向けた。
「一旦距離をおこうと言っただけだ」
「それを世間一般では別れる、って言うんじゃねえの? きっと彼女さんも別れたと思ってるぜ」
「そうかな」
腕組みをした三崎は首を傾げた。
その時、三崎のスマートフォンが再び揺れた。
通知を見た瞬間、三崎の表情が固まった。
水沢にはその一瞬だけ、三崎の彫刻のような白い顔から、完全に血の気が引いたように見えた
「どした、何かあった?」
「いや、その、すまない。今日はこの辺り帰らせてもらう」
「え? そうなの? じゃあ俺も。ちょうど飽きてきたところだった」
荷物を片付け、二人はゼミ室を出た。
「一緒に駅まで行く?」
「ああ、二十時十分の電車があったな」
「じゃあちょい待ち。トイレいってくるわ」
トイレへ向かった水沢は、三崎がスマートフォンを取り出して電話をかけている姿が横目に映った。
用を足して戻ってきたときには、三崎はスマートフォンに文字を打ち込んでいる様子だ。
「すまない、少し待ってくれ……よし、大丈夫。行こうか」
声がわずかに震え、何かに急き立てられるように、視線がスマートフォンの画面を行き来していた。
「なんか事件でも起きたんかよ。お前が焦るとか珍しいなあ」
「まあ、少し込み入った事情があってな。とにかく駅に向かおう」
気持ち駆け足の三崎を追いかけるようにして、水沢は付いていく。
大学前駅に着いたのは、二十時十分のモノレールが到着する少し前だった。
水沢と三崎はモノレールへ乗り、終点で私鉄電車に乗り換える。
ここで三崎は、普段とは方面が違うプラットフォームへ向けて歩き始めた。
「じゃあ、ここで。今日は少し用事があるから」
「そっち? 珍しいな。まあ用事なら仕方ないか」
普段ならまず行かない方向だ。
かすかな違和感が胸に残ったが、水沢はそのまま駅で三崎と別れ、帰宅した。
翌日、構内の一部で「三崎がストーカーをしている」という噂が立ち上り始めた。
(あの三崎がストーカー!?)
水沢はあり得ない話に当初は取り合わなかった。
学生たちの間で徐々に炎上し始めた話をまとめると、
「三崎が部屋を見張っていたのを元カノが見つけて、そのあと部屋に押しかけた――らしい」
というものだった。
昼休みにはもう、学食のあちこちで噂話が飛び交っていた。
誰もが“見たらしい誰か”の話をしていた。
大まかな時系列を、水沢は講義に出席していた他の学生に聞いて把握した。
部屋を見張る三崎を元カノが見つけた時間というのは、水沢と三崎がゼミ室で論文を書いている時間だった。
「俺が証言してやろうか、お前に元カノの部屋を見張ることなんでできないって」
不名誉な噂を立てられた三崎に水沢が声をかけたが、三崎は首を縦に振らない。
水沢が誤解を解くべきだと何度迫っても、
「いや、良いんだ。このままにしておいてくれ」
としか言わなかった。
警察沙汰にはなっていないものの、構内での三崎の立場は針の筵だ。
大切な友人の窮地を、水沢は何とか救ってやりたかった。
「うーん、あれだな、歩鳥に聞いてみっか。あいつなら何か思いつく気がするし」
こうして、水沢は喫茶店「男子女子」へ足を向けたのである。




