第5話 戻ってきた絵と、信頼の密室
「本当に元に戻ってましたー! やったー! 生き返った気分です!」
翌日、火曜日の放課後。
前日同様に鈴の音を盛大にならしながら夕凪雪子は喫茶店「男子女子」に乗り込んできた。
「よかったね」
テーブルを拭いていた観音寺歩鳥は手を止めて微笑む。
「これで美術展の応募に間に合います! いやー、危ないところでしたよ!」
「明日だっけ、締め切り」
「ですです」
「夕凪ちゃんが描いたのはどんな絵だぽこ?」
観音寺はカウンターに座っているぽこちゃんに手を添えて、夕凪に向けた。
夕凪はにんまりと笑って、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「見てくださいよー。戻ってきた嬉しさのあまり記念撮影したんです」
スマートフォンの小さな画面だが、そこにはキャンバスに描かれた絵画と、恐らく自撮りをしたらしいピースサインをしている夕凪が映っている。
「わあ、凄い上手だね、とても不思議な気持ちになる絵」
現実にある風景を映したものではないだろう。
全体的に淡い色合いで夢の中を思わせる。
深い緑の森。木漏れ日が揺れながら照らし出しているのは、木板の歩道の脇にぽつんと立つ、古びた赤い郵便ポスト。
そのポストの前で手紙を出そうとしている少女がいる。
少女の顔は、どことなく幼いころの神明麻美を想像させるものだった。
「思ったより上手だからムカつくぽこ」
「褒めなさいよ!」
夕凪がぽこちゃんの丸いお腹を軽く叩く。
「セクハラだぽこ!」
「うりうり」
「きゃー! 訴えるぽこ!」
お腹を撫で続ける夕凪から観音寺はぽこちゃんを遠ざけた。
「なんか、この女の子は神明さんに似ているみたい、気のせい?」
「意識してたわけじゃないんですけどね、先輩と一緒に描いてることが多かったから自然と似ちゃったのかも」
「神明さんは似てるのに気づいてた?」
「どうかなあ……言われたことはないけど、何度も見てるから気付いてたかもしれないですね」
――前日の月曜日。夕凪を先に帰したあとの、静まり返った店内。
「嫉妬ではないし、悔しいとかとも違うんです。自分を慕っている子の絵が、自分より優れていた。そのことに……どうしても、心が追いつかなくて……」
神明はそこで言葉を切り、視線を落とした。
観音寺は、その言葉がどれほど神明にとって言いにくいものだったかを悟った。
「それで、魔が差したのかな?」
金曜日の放課後、美術室から出てきた神明のキャンバスバッグには、すでに夕凪の絵が入っていた。神明はそれをそのまま自宅に持ち帰ったのだ。
「夕凪ちゃんは、あなたが『自分の絵を手直しするために持ち帰る』と言ったのを、一ミリも疑わなかった。バッグの中に自分の絵が隠されているなんて、想像すらしなかった。……わたしには夕凪ちゃんが持っているフィルタがないので、話を聞いただけで解ったの」
「フィルタ?」
「夕凪ちゃんの、あなたへの無条件の信頼っていうフィルタ。彼女の、その純粋な心が、結果的に、誰も入れない密室を作ってしまったのね」
神明は両手で顔を覆う。
密室の構成は意図したものではなかった。そもそも密室が構成される前に、夕凪の絵は美術室から持ち出されていた。
言うなれば――“夕凪の信頼が作り出した密室”だった。
「あなたを許すわけじゃないけど、夕凪ちゃんを傷つけたくないの。だから、お願い」
「でも結局、なんで絵はなくなって今日戻ってきたんですかねー」
夕凪は腕組みをして首を傾げた。
「神隠しとか?」
顔を上げてごまかすように、観音寺は夕凪から視線を逸らした。
「うーん、神隠しかあ……京極堂ならズバっと謎解きしてくれるんでしょうけど」
「まあ、不思議なことは何もないかもしれないけど、たまには不思議のままにしておくのも、いいんじゃない?」
「そうですね! 結果オーライということで!」
夕凪の笑顔がはじけそうだった。
「じゃあ、わたし、部活に戻らないといけないので。今日は報告というかお礼がしたかったので」
「うん、ありがと。また今度ゆっくりね」
はいっ、と敬礼の仕草をした夕凪は、来た時の勢いそのままに学校へ戻っていった。
夕凪を見送った観音寺は、抱えていたぽこちゃんをカウンターに戻す。
「これで良かったのかな、あまり自信がないなあ」
「歩鳥ちゃんのやりかたで良かったぽこー」
「そうだといいな」
カウンターに座り頬杖をついた観音寺は、部活に戻った夕凪と神明を思い描く。
神明を糾弾したとすれば絵画の窃盗は事件となり、そのものは解決しただろう。
だが、解決したところで夕凪には深く抉られた傷が残る。
憧れや信頼は、それが壊されたときに当人を傷つけることがある。
壊された信頼が生んだ傷の痛みは、経験している観音寺自身が一番良く分かっていた。
観音寺は自分のために淹れたコーヒーのカップを手に取る。そして、誰もいないカウンターの席――かつて、この店で観音寺をアルバイトで雇ってくれた人がよく座っていた、いまは少しだけ寂しく見える特等席に、ふと視線を落とした。
「ねえ、店長? わたしも騙されたままが良かったんですけどね」
観音寺は静かな店内を見渡して、そっと微笑む。
立ち上るコーヒーの湯気の向こうで、ぽこちゃんが静かにそれを見守っていた。




