第3話 密室の朝と震える手
月曜日の七時半少し過ぎたころ。
まだ朝の新鮮な空気をたたえている校内に、騒がしい足音が響く。
「遅くなってすみません!」
夕凪は廊下を駆け抜け、美術室前で足を止めた。そこには既に神明が立っていた。
「大丈夫だから走らないで、怪我されても困る」
「先輩を待たせているのに、のんびり歩けません」
神明は通学鞄と、観光地の紙袋だけを手にしている。
朝の光のせいだろうか。夕凪が駆け寄ったとき、神明は目を閉じていた。
目を開いた瞬間、ほんの一瞬だけ表情がかすかに陰った。
夕凪がそれに気づくのは、もっと後のことだ。
「どこか旅行でも行ってたんですか?」
夕凪は紙袋を覗き込む。
「土日で箱根に。家族で計画してたの、忘れてたよ。あとで夕凪にもお菓子あげる」
「やったー、いただきますっ。旅行かあいいなあ、写真とか見せてくださいよー」
「後で見せるよ」
「持ち帰った絵、持ってこなかったんですね」
「土日が旅行だったでしょ? 日曜の夜に少し手直ししたの。まだ乾いてなくて、今日は持ってこられなかった」
「せっかく持ち帰ったのに、なんだかなあ、ですね」
油絵が持ち運べるようになるまで乾くには数日かかる。少しの修正をしただけでも今日持ってくるのは難しかったのだろう。
「まあね。よし、じゃあ入ろう」
神明は通学鞄から鍵を取り出し、二日間“密室”だった美術室の扉を開けた。
止まっていた歯車の金属が噛み合うような音がした。
「さすがに空気が淀んでますねー」
夕凪は軽口に合わせるように軽い足取りで準備室へ向かう。
「……そうだね、淀んでいる」
神明は美術室に入らず、廊下に立ったまま夕凪の背中を見送っていた。
廊下から差し込む朝日が逆光になっている。
もしこのとき夕凪が振り返っても神明の表情を確認することはできなかっただろう。
「あ、そうか、こっちも鍵。先輩お願いできますか?」
「……ちょっと待ってて」
準備室の扉が開かないことに気が付いた夕凪が呼ぶと、神明はゆっくり歩いてきて、手にしていた鍵で扉を開けた。
鍵が震えるような、かすかな金属音がした。
神明の手が、わずかに強張っているように夕凪には見えた。
「さてと、水曜日までに間に合わせますよーっと」
夕凪は入口右手のイーゼルにかけられた布をめくる。
――キャンバスが、消えていた。
視界に飛び込んできたのは、無機質な木製のイーゼルの骨組みだけ。金曜日までそこにあった、自分が何時間も触れていたはずのざらついた布の感触が、幻だったかのように消え去っている。
「あれ……絵が……ない? 嘘でしょ?」
夕凪はイーゼルの裏、壁際の絵、棚の隙間まで探し回った。
五分ほどで準備室を探し尽くし、息を切らしながら振り返る。
「これは……! 密室! 盗難! 事件!」
「……美術室側にもなかったよ」
いつの間にか準備室の入口まで戻っていた神明が、静かに言った。その視線は夕凪ではなく、美術室の窓の方へ向けられている。
「だってそうですよね? 金曜日に二人で戸締りして、鍵は先輩が持ち帰って……」
「戸締りは確実にした」
「美術室の出入り口は戸締りした扉のひとつだけで……」
「さっき確かめたけど、窓ガラスも全部内側から施錠されたままだ」
「それで先輩が土日は旅行に行ってたなら“美術室は誰も開けられない”じゃないですか!」
「なのに夕凪の絵がなくなっている。密室から盗まれた、と」
「そうです! きっと密室をすり抜けるトリックを使って侵入して、わたしの絵を盗んだに違いないです!」
「……何のために」
神明の聞き慣れない低い声の一言で、夕凪は固まった。
「な、なんのため……でしょうねえ……?」
「仮に密室を出入りできたとしても、夕凪の絵を盗むメリットが犯人にない……」
「ぐうの音も出ませんよお」
「……だから、多分、何かの間違いじゃないかな。しばらくしたらひょっこり出てくるかもしれないし」
「失くし物あるある、ですね」
「いまは騒ぎにしないで二、三日は様子をみようか。鍵を返しに行くついでに、先生にだけは報告しておこう」
釈然としない夕凪を連れて、神明は職員室へ行った。
「先生、実は――」
神明は、夕凪が口を挟む隙もないほど詳細に、けれど重大な事件には聞こえないような落ち着いたトーンで、美術部顧問に経緯を説明した。
「分かった、一応報告は受けたけど、君らが様子をみるというなら今日はそれでいい」
「ありがとうございます」
神明は顧問に頭を下げる。
「ただ美術展の応募締め切りが水曜日だけど、夕凪はどうする?」
「今からじゃ間に合いませんよお……」
夕凪は天を仰いだ。胸の奥がずしんと重くなる。
「前に描いた絵があったよね。あれで応募するのはどうかな?」
落ち込んでいる夕凪を神明がフォローした。
「あの絵ですかあ……あんまり出来栄え良くないんですよね……でも仕方ないか」
項垂れて職員室を出た夕凪を、神明は後ろから追いかけた。
「そんなに悪い絵じゃなかったよ。大丈夫だと思う」
「わたしが描きかけてた絵とどっちが良かったですか……?」
「それは……」
神明はそこで口を噤んだ。
登校してくる生徒で校内が活気づき始めている。朝礼が近いようだ。
夕凪は神明と別れ、教室へ向かった。
六時限目まで授業を受けたが、夕凪は上の空だった。ノートも白紙のまま。
(頑張って描いたのに、有耶無耶にされてる気がする……納得いかない……)
放課後、夕凪は部活に顔を出さず、裏門から下校した。
「だめだー、誰かに話を聞いてもらわないと、このモヤモヤは消えない!」
夕凪の足は自然と、通い慣れた「男子女子」へ向かっていた。
店長次第の気ままな営業時間も、今日だけは味方してくれると信じて。




