第2話 美術室の鍵は閉まる
「夕凪、もうすぐ十九時だから閉めるよ」
集中してキャンバスに向かっていた夕凪雪子は、部長の神明麻美に声をかけられるまで気がつかなかった。
「あれ先輩、もう少し待っててください。これから片づけるので」
「美術展の締め切り、来週の水曜日だよね」
「そうなんですよー、だけど全然仕上がりが納得いかなくって」
「どこかで見切りをつけないと物事は完成しないよ、見せてごらん」
近づいた神明は、腕組みをして夕凪が絵筆を走らせていたキャンバスを見ている。
出来栄えをチェックされているのだから当然だが、達観しているような神明を前にすると夕凪はどうしても落ち着かなくなってしまう。
しかもこの時の神明は、どこか言いにくそうに眉間に皺を寄せていた。
その視線は、夕凪の絵を凝視したまま微動だにしない。
「ええと……どこか直したほうがいいところとか……あります?」
「ん? ああ、ごめん。良いと思うよ。このまま仕上げたら美術展でも良い線いくんじゃないかな」
「ほんとに!? 嬉しいなー、先輩に言われると倍嬉しいですっ」
素直に喜んでいる夕凪から、神明は弾かれたように視線をそらした。
「というわけだから、なるべく早く片付けて」
「そういえば先輩も美術展に応募するんですよね? もう仕上がってるんですか? あ、はいはい、今すぐ片づけます!」
会話と片付けを同時にできない夕凪を、神明は冷ややかな視線で促す。
「わたしは、先週に描き上げたよ。準備室のキャンバスラックに置いてある」
「いいなあ、わたしも先輩みたいに計画的にすすめられたらいいのに」
「性分とか性格だから、そういうのは直すの難しいんじゃないかな」
「おや? あれ? いまわたしディスられてます?」
「違う違う、わたしの性格。見切りをつけるとか諦めるのが早いというか、そういうところ」
「ですかー、まあ何ごとも良し悪しってやつですかね」
夕凪は画材をガタゴトと音を立てて片付け、キャンバスを布で覆うと、イーゼルごと準備室へ運んだ。
そして準備室の入口から直ぐ右の、美術道具が収められているキャビネットの前に置いた。
キャンバスラックは準備室の左奥にある。
興味本位という言葉そのままに、夕凪は神明が美術展へ応募する絵に目を向けた。
摺りガラス越しに雨の工場群がぼんやりと浮かぶ風景だった。
風景画なのだが室内と室外を同時に描いていて、内外を窓ガラスが区切って別世界のように表現している。
綺麗だけれど、どこか大人びた距離感を感じる。自分には描けない絵だな、と夕凪は溜息をつく。
まあ一年の差があるのだ、来年には自分にも先輩のような絵が描けるようになるんだろう、と夕凪は自分を納得させた。
「あんまり人の絵をじろじろ見ないで欲しいな」
なかなか出てこない夕凪に痺れを切らしたのだろう、神明は準備室の入口にいた。
「ぅおっと、ごめんなさい、でもでも素敵な絵ですよね、先輩の絵ってば」
神明は唇をかみしめ、苦いものを飲み込むような顔をしていた。夕凪の純粋な称賛が、まるで彼女を責め立てているかのようにも見える。
「そうですね、うんっ、帰らなくちゃですよねー、はいはい、横を通りますね通りますよ、すみませんー」
準備室の入口にいた神明の横を抜き足差し足忍び足といった態で通り抜けた夕凪は、自分の通学用バッグが置かれている場所へ戻る。
三十秒ほどの間を空けて準備室から出てきた神明は、夕凪の視線を遮るように大きなキャンバスバッグを抱えて出てきた。
そのまま準備室の鍵を閉める。
「少し換気で開けてたから、窓の戸締りお願いできる?」
言われた途端に駆け出した夕凪は「はいはーい」と口ずさみながら、開いていた窓を順に閉めていった。パチン、パチンと、静まり返った美術室にクレセント錠の閉まる金属音が規則正しく響く。
「はいオーケー、大丈夫ですよ。先輩、絵を持って帰るんですか?」
「夕凪の絵を見てたらね、少し手を加えたくなったから家で手直ししてくる。見切りと諦めは早いけれど考え直すのも早いんだ、わたしは」
追い立てられるようにして夕凪は美術室を出る。
校内には生徒はほとんどいないので静まり返っている。もしかしたら運動系の部活をしている生徒たちが部室でたむろしているかもしれない。
この時間になると職員室に残っている先生も数が少ないだろう。
「夕凪はさ」神明は鍵をかけながら言う。「バスケとか陸上とか、文科系ではない部活に入ろうとは思わなかったの?」
「わたしが美術部に向いてないってことですか……?」
「絵は上手だし、美術部には向いてると思うよ。というよりも夕凪みたいな溌剌とした性格だと、運動系の部活をしてるイメージがあるからさ」
「えへ、上手だなんてお世辞でも嬉しいですー。でもですね、こう見えてわたし、可憐な文科系美少女を目指してるんですよ」
「そうか、目指してるのか。扉、閉まってるかチェックしてもらえる?」
神明の口元に、どこか自嘲めいた微かな笑みが浮かんだのを夕凪は見つめた。
けれど、それがどういう意味の笑みなのか、この時の夕凪には知る由もなかった。
美術室の扉が閉まっていることを確認した夕凪は「オッケーです」とサムズアップのハンドサインをする。
「鍵、職員室まで返しにいきましょうか?」
「どうかな、時間も時間だし。今日はわたしが持って帰るよ。月曜日に早くきて返しておくから」
「そしたらついでと言ってはなんですけど、月曜日の授業前に少しでも絵を描き進めたいので、七時半に美術室前で待ち合わせしませんか?」
夕凪は両手を組んでお願いのポーズをする。
神明は一瞬だけ、鍵を握る手に力を込めたように見えたが、すぐに軽くため息をついた。
「仕方ないな、良いよ。文科系美少女を目指している後輩の頼みは断れないか」
「先輩、うっかり告白してしまったわたしが悪いのですけど、文科系美少女のくだり、言い触らさないでくださいね?」
金曜日の十九時過ぎ。夜の静けさに包まれた校舎の片隅で、夕凪と神明は、鍵のかかった“密室”の美術室を後にした。




