第1話 密室から消えたキャンバス
「ねえ店長、聞いてくださいよ! わたしの絵が、密室の美術室から消えたんです!」
五月末、授業が終わってもまだ明るい季節。
月曜日の放課後、公立高校の制服姿の夕凪雪子は、勢いよくドアを開けて吊り下げられた鈴を派手に鳴らして入ってきた。
焙煎されたコーヒーの香る静かな空間に、彼女の荒い息遣いが場違いに響く。
肩で息をしながら夕凪は喋り続けた。
「ありえない……ありえない……」
世界の終わりを嘆くシスターのように天井を仰ぎながら進み、カウンターに着くと、重そうな鞄を放り出すようにして腰を下ろした。
「なんだか大騒ぎだね。失恋でもしたの? よかったら話、聞くよ」
「失恋じゃないですって、聞いてました?」
「密室とか、消えたとか? わあ、うちの店にぴったりの話題だね」
カウンターの内側で開店準備を進めていた店長の観音寺歩鳥は、両手を顔の横でぱたぱたと開いたり閉じたりしてみせる。
「それですそれそれ、イッツア密室」
「密室かあ……響きが良いよねえ……」
「今日、開店早いですね。開いてますようにって祈りながら来たら看板が出てて、思わず飛び込んじゃいました」
「五限が休講になったの。用事もないし早めに開けちゃった。今日は部活ないの?」
「その、まさに部活で盗難があって……しかも密室で、盗まれたのがわたしの絵なんです!」
観音寺が店長を務める喫茶店「男子女子」は、夕凪の高校の裏門から駅へ向かう途中の路地裏にある。
大学三年生の観音寺は、現役の女子大生でありながら、この店の店長だ。
以前、彼女は「学生起業みたいでしょ」と胸を張っていたけれど、路地裏の古びた喫茶店を継ぐことが“起業”になるのかは、夕凪にはちょっと疑問だった。
もっとも本人が嬉しそうなので深くつっこんだことはない。
そして観音寺は大学生とはいえ、夕凪と同い年と言われても納得してしまうほど幼い顔立ちだ。
「密室といえばポーの『モルグ街の殺人』とか、カーの『三つの棺』だよね」
「あ、そういえば『三つの棺』はまだ読んでないかも。ありますか?」
「多分あったと思う。学割でいい?」
夕凪は「はーい」と返事をしながら席を立ち、店奥の本棚へ向かう。
学割とは“学割コーヒー”のことで、通常の半額という気前の良さを超えた無謀な値段設定だ。
夕凪がこの店に通う理由は、この学割コーヒーと本棚に並ぶ古今のミステリ小説たちである。
しかも小説は貸し出しまでしているのだから、夕凪としてはセキュリティの概念を教えてあげたいくらいだ。
「この店っていつも空いてますよね。安いし美味しいし本もあるし、可愛い店長がいるのに。男子なら絶対来ますよ……あ、あった」
文庫本を手に戻ると、観音寺は窓際で丸くなっている猫のようにご機嫌な顔をしていた。
「可愛い店長、のところをもう一回」
「可愛い店長」
「ありがと。授業優先で不定期営業だし、番犬くんが高校生男子を睨むからかしらね。まあ儲けなくても大丈夫だから気楽でいいんだけど」
「番犬? 犬なんていましたっけ?」
「さあ、どうだったかしら」
歩鳥はいたずらっぽく人差し指を唇に当てて見せた。
「あ、そんなことより絵ですよ、盗まれたわたしの絵!」
「まあまあ落ち着いて。夕凪ちゃんが一息ついてから話を聞きますから」
観音寺は淹れたてのコーヒーを夕凪の前に置く。
「学割の男子女子ブレンドです、どうぞ」
「……前から言おうと思ってたんですけど……今日の勢いなら言えます」
「なにを?」
「男子女子ブレンドって……名前、ちょっとエッチじゃないですか? 男子と女子が混ざってる感じで」
夕凪が身を乗り出して力説すると、観音寺は少し身を引いた。
「考えすぎと言いたいけど……まあ、わたしも初めて聞いたときは似たようなこと思ったかも。慣れって怖いね」
「店名が『男子女子』っていうのも、思春期をこじらせたみたいですよね。前の店長ってどんな人だったんです?」
「じゃあ男子男子とか女子女子にしてみようか」
「駄目。別の意味でもっと駄目です」
夕凪が右手で突っ込みを入れる。
しばらく他愛のない会話が続き、コーヒーも減ってきたころ。
「落ち着いた?」
「はい、おかげさまで」
「じゃあちょっと待ってて。話を聞くなら、一緒に聞いてほしい子がいるの」
観音寺が物置兼事務所から戻ってくると、胸にちょうど収まるサイズのぬいぐるみを大事そうに抱えていた。
クリーム色の長い毛足。丸い胴体に短い手足の、二・五頭身のデフォルメ猫。つぶらな瞳で微笑んでいる。
「かっわいー!」
「でしょう? 昨日一目惚れしてお迎えしちゃったの」
観音寺はぬいぐるみをカウンターに座らせる。ちょうど観音寺とぬいぐるみが並んで夕凪に向き合っているようでもある。
「名前はぽこちゃん。ねえ、ぽこちゃん、一緒にお話聞こうねー」
観音寺がぽこちゃんの頭を優しくなでる。夕凪がその愛らしさに身を乗り出そうとした、その時だった。
「しょうがないぽこ」
あどけないぬいぐるみが、妙にふてぶてしい声で“しゃべった”。
夕凪は身を乗り出した姿勢のまま、ピキリと凝固した。
「歩鳥ちゃんの頼みだから聞いてあげるぽこ。詳しく話すぽこ」




