第442話:夕暮れの執務室
夕日が王宮の窓を橙色に染めていた。
第三書記室では、最後の書類が閉じられる。
ガルは羽根ペンを置き、大きく息を吐いた。
今日も特別な命令はなかった。
戦争も起きない。
革命も起きない。
ただ、地方から届いた報告へ返書を書き、橋の修繕予定を確認し、冬支度の予算へ印を押しただけだった。
若い書記官が笑う。
「今日も平和でしたね。」
ガルも微笑んだ。
「それが一番難しい。」
「難しい?」
「平和は、毎日続けないと残らないから。」
若い書記官は少し考え込む。
その言葉の意味を、まだ十分には理解できない。
窓の外では、国王が帰路につく馬車へ乗り込んでいた。
護衛たちも穏やかな表情をしている。
ガルは立ち上がり、部屋の窓を閉めた。
廊下には歴代宰相の肖像画はない。
第三書記室で働いた名もない役人たちの名簿だけが、静かに壁へ掛けられている。
その一番古い行。
そこには、百五十年前の一人の名が刻まれていた。
**カイン。**
ガルはその名を見つめることなく、一礼だけした。
尊敬はする。
だが追い掛けようとは思わない。
先祖と同じように、今日の仕事を終えるだけ。
机の灯りが一つ消える。
王宮には夜が訪れる。
誰にも気付かれない場所で、百五十年続いた一日の終わりが、今日も静かに積み重なっていった。
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