第402話「使節の執務室」
グランヴェルド王国の首都にある、レグナス王国大使館の一室。駐在使節のベイムは、本国から届いた定期報告書を読み終え、静かに暖炉の火へと投げ入れた。
報告書には、ただ「今月の王都の降雨量と、街道の補修状況」しか書かれていなかった。
「……これだけの情報で、あの方はすべてを動かしているのか」
ベイムは、燃え尽きていく紙切れを見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを禁じ得なかった。
他国の大使館であれば、現地の貴族を賄賂で買収し、軍事機密の書類を盗み出すのがスパイとしての主要な任務だ。しかし、ベイムが本国──宮廷の欄外の主に求められているのは、そうした派手な機密ではなかった。
「市場の野菜の値段」「馬車の車輪の泥のつき具合」「兵士たちの制服のほつれ」
そうした、一見すると国家の興亡とは何の関係もない、ありふれた市井の日常の観察データだけだった。
だが、それらの断片的な数字が本国へ送られると、宮廷の奥にいるあの男の手によって、大国の「軍事予算の隠された使途」や「兵糧の実際の蓄え」へと完璧に逆算され、統治の盤面が先んじて書き換えられるのだ。
グランヴェルドの宮廷貴族たちは、自分たちの最高機密が漏れていると疑い、内部で血生臭い派閥争いを始めている。しかし、情報が漏れているのではない。ただ、彼らの生活の「呼吸の乱れ」が、レグナスに見透かされているだけだった。
「私たちは、怪物の目を務めているに過ぎないな」
ベイムは新しい手帳を開き、今日市場で見た林檎の価格を、淡々と書き込み始めた。




