第398話「診療所の棚」
アルカディア帝国の東部国境沿いにある、うらぶれた街の私立診療所。老医師のマルクは、薬棚の引き出しを開け、中に並ぶ小瓶の数を数えていた。
「先生、またレグナスの行商人から、傷薬の軟膏が安く手に入りましたよ」
若い看護師が、新しく届いた箱を机に置きながら嬉しそうに言った。
「ああ、助かるな。これがあれば、貧しい炭鉱夫たちからも大した治療費を貰わずに済む」
マルクは瓶の蓋を開け、独特の油の匂いを確認した。品質は極めて高く、帝国の軍医たちが使うものと遜色がない。なぜこれほどの良品が、一介の行商人を通じて、帝国の辺境にこれほど大量に流れ込んでくるのか、マルクには分からなかった。
国境の関所では、薬品の輸出入には厳しい検査と高い税が課されているはずだった。
だが、レグナスの商人たちが持参する通関書類には、常に「家庭用の香油」という名目が使われ、現地の役人もそれ以上の追及をせずに印を押していた。役人たちは、商人から渡されるささやかな袖の下で満足し、ただの小遣い稼ぎだと思っている。
しかし、その結果として、帝国の辺境民の健康と命は、自国の宮廷ではなく、レグナスの物資によって維持される形になっていた。
民衆の間では、高い税を貪るだけの帝国の統治よりも、安くて効く薬を運んでくるレグナスへの、無言の信頼が草の根のように広がっている。
「国が何を考えているかは知らんが、病人が治るならそれでいいさ」
老医師は瓶を棚に並べた。
大仰な宣撫工作も、国境の変更も行われていない。ただ一瓶の軟膏が、帝国の足元にある民の心を、静かに、確実に侵食していた。




