第390話「小国の商談」
グランヴェルド王国の国境沿いにある小国フェルゼン。その宮廷の一室で、大商人のハルムは、レグナスから派遣されてきた若い交易官と向き合っていた。
「今回提示された、塩の独占販売権の件ですが……」
ハルムが切り出すと、若い交易官は穏やかな笑みを崩さずに、一枚の書類を差し出した。
「我が国としては、フェルゼン国内のすべての流通網を、現在の価格のまま十年間維持することをお約束します。補助金も、すべて我が国の宮廷から直接支出されます」
ハルムは書類の数字を睨みつけ、背中に冷や汗が流れるのを感じた。
商人として、これほど有利で、損のない取引は存在しない。フェルゼンの塩不足は一瞬で解消され、ハルムの商会も莫大な富を得るだろう。だが、それは同時に、フェルゼンの全住民の命を繋ぐ「塩」という絶対的な資源の蛇口を、レグナスに完全に明け渡すことを意味していた。
断れば、国内の他の商人が喜んでこの席に座るだけだ。
「……お国には、ずいぶんと太っ腹な『宰相府』があるようですね」
ハルムが皮肉を込めて言うと、交易官は不思議そうに首をひねった。
「いえ、これは単なる地方の、通常の内政計画の一部に過ぎませんよ」
彼らは自分たちがどれほど恐ろしい支配の網を広げているか、自覚すらしていないのだ。ただ上に言われた通り、正しい数字を並べているだけ。ハルムは震える手で、その親切極まる奴隷契約書に、署名をせざるを得なかった。




