第385話「役場の窓口」
レグナス王国西部の国境に近い小さな役場で、中堅文官のフィアスは、朝から押し寄せる陳情者の対応に追われていた。
「おい、役人さん。この新しい『種籾の配給申請書』だが、何でこんなに書く欄が多いんだ?」
年配の農夫が、不器用な手で羽根ペンを握りながら不満げに言った。書類には、作付けする面積だけでなく、家族の人数や、近くにある小川の水量まで細かく記入する欄が設けられていた。
「申し訳ありません。ですが、これを正確に書いていただけないと、国からの補助金が下りない決まりなのです」
フィアスは事務的な微笑みを浮かべながら、手際よく書類を受け取っていった。
普通の役人であれば、これは単なる上層部の役座仕事、あるいは予算を渋るための嫌がらせだと思うだろう。だが、フィアスは知っていた。この窓口で集められた膨大な「山の水量のデータ」が、そのまま宮廷の治水局へと直行していることを。
彼らが集めているのは、農民たちの生活の記録ではない。万が一、隣国のグランヴェルドが山越えのルートを選択した際、彼らの大軍が「どれだけの期間、現地の水源だけで干上がらずに維持できるか」を逆算するための、完璧な軍事情報だった。
それを、農民たちに「補助金」という飴を与えることで、自発的に、しかも毎年最新の数値として提出させているのだ。
「まったく、お上は現場の苦労を知らん」
農夫はぼやきながら、新しい書類を受け取って去っていった。
誰も騙していない。誰も脅していない。ただ、窓口の紙一枚のやり取りの中に、大国の進軍を未然に封じるための冷徹な罠が、静かに仕込まれていた。




