第380話「役人の引き出し」
レグナス王国中央通商局の執務室。夜、中堅役人のフィアスは、自分の引き出しの奥にある「古い申請書の束」を整理していた。
それは、数年前から定期的に届いている、国境沿いの特定の宿場町からの「井戸の掘削許可」の書類だった。
「今年もまた、三箇所増やすのか」
フィアスは申請書に、淡々と承認の印を押していった。
普通の役人なら、ただの住民への福祉事業として見過ごすだろう。しかし、フィアスがその井戸の位置を地図上に落とし込んでみたとき、ある明確な法則性が浮かび上がってきた。
すべての井戸は、隣国グランヴェルドが万が一、国境を越えて侵攻してきた場合の「想定進軍ルート」から、あらかじめ半日ほど外れた場所に意図的に配置されていたのだ。
もし敵軍がレグナスに侵入した際、彼らは兵站を維持するために、必ずこれらの井戸を利用しようとするだろう。しかし、井戸の場所へ向かうためには、レグナス側が待ち伏せや奇襲を仕掛けやすい、視界の悪い谷地を通過せねばならない。
水という生命線をエサにして、敵の足取りをあらかじめ特定の死地へと誘導する仕組み。
それを、数年前に宮廷の何者かが「住民の要望」という形を偽装して、地方の役所に一枚ずつ書類を提出させていたのだ。フィアスはその書類の欄外に、いつも通り「異常なし」とだけ書き添えた。
「私たちの仕事は、ただ書類を回すことだ」
引き出しを閉める音が、静かな室内に響いた。戦うための武器は、鉄ではなく、この紙の一枚一枚の中にすでに仕込まれていた。




