第376話「使節の足元」
アルカディア帝国の特使館。夜、従者のルネは、主人の寝室の前に置かれた泥だらけの長靴を磨いていた。
主人は今日、レグナスの治水事業を視察するため、王都の郊外にある巨大な遊水地へ出向いていた。
「……やっぱり、この泥は変だな」
ルネは靴底にへばりついた灰色の泥を、小刀の先で削り落としながら呟いた。
彼は帝国の土壌を調べる専門の教育を受けていた。通常の遊水地であれば、川から流れ込んだ砂や粘土が堆積しているはずだ。しかし、この長靴に付着していたのは、明らかに人工的に粉砕された「石灰石の粉」が混ざった泥だった。
「ただの堤防の補強にしては、量が多すぎる」
ルネは削り落とした粉末を、小さな紙包みに集めた。
石灰石を大量に混ぜた土壌は、水を吸うと驚くほど強固に固まる性質を持つ。レグナスが「水害対策」と称して築いている広大な平地は、ひとたび大雨が降れば、数万の重騎兵を支えてもびくともしない「即席の巨大な軍事滑走路(陣地)」へと変貌するのだ。
普段はただの農民たちが耕す、のどかな水田にしか見えない。
しかし、その地下には、他国の侵攻を阻み、同時に自軍の迅速な展開を可能にするための鉄板のような土台が、数年がかりで仕込まれていた。
「あの凡庸に見える国が、これほどの手間をかけている」
ルネは窓の外の暗闇を見つめた。
宮廷の書類には、ただの「農業振興費」としか記載されていない。戦の準備を一切見せないまま、国土そのものを戦要塞へと作り変えている誰かがいる。ルネの手のひらの上で、乾いた石灰の粉が白く冷たく輝いていた。




