第355話「写本の余白」
レグナス王宮の片隅にある写本室で、エルムは古い外交記録の整理を続けている。彼の仕事は、過去の条約文書を羊皮紙に書き写し、後世に残すことだった。極めて退屈で、日の当たらない作業だ。
しかし、エルムには一つの密かな楽しみがあった。それは、時折文書の端に見つかる、小さな記号の羅列を読み解くことだった。
「またこれか……」
エルムは五年前の、アルカディア帝国との国境画定交渉の写しを見ていた。その公式文書の最下部、署名のすぐ下に、インクの痕とも見紛うような極小の「点」が三つ、三角形に配置されていた。普通の人間なら単なる汚れとして見落とすだろう。だが、エルムが他の様々な部署の、例えば補給計画書や、地方の免税許可証を調べたときにも、全く同じ位置に同じ点が見つかっていた。
それは、それらの書類がすべて、同一の人物の検閲を通過したことを示す私的な刻印のようだった。
軍事、内政、外交。それぞれの部署は完全に独立しており、互いの情報を共有していないはずだった。なのに、そのすべての頂点に、静かに書類を見つめ、点を打っている影が存在する。その影が誰なのか、名前はどこにも残っていない。国王の署名よりも小さく、しかし確実に、すべての決定にその影の意志が介在している。
エルムは羽ペンをインクに浸し、その点を慎重に書き写した。歴史の表舞台には決して現れない、だがこの国を確かに動かしている何者かの呼吸を、自分だけが知っているような気がしていた。




