第350話「小国の傾き」
レグナス王国と国境を接する、人口わずか数千人の小国フェルゼン。その政庁の一室で、老内政官のルッツは深い溜息をついていた。机の上には、レグナスから届いた新たな通商協定の草案が広げられている。
「こちらの要求が、ほぼ無条件で通っているな」
若い補佐官が不思議そうに書類を覗き込んだ。フェルゼンが長年悩まされていた川の水利権も、国境沿いの森の管理権も、レグナス側は驚くほど寛大な条件を提示してきた。小国にとって、これ以上ない有利な取引だった。
「普通なら喜ぶべきところだがね」
ルッツは机の端を指先で叩いた。
「これだけ条件が良いということは、我が国は今後、あらゆる物資の供給をレグナスに依存することになる。塩も、鉄も、冬を越すための薪も、すべてレグナスの街道を通ってくるものが一番安くなるからだ」
「それは、我が国の財政が助かるということでは?」
「そうだ。助かる。だから誰も反対できない。だが気づけば、我が国はレグナスなしでは一日も立ち行かなくなる。兵を動かされるよりも確実に、首根っこを掴まれるということだ」
ルッツは草案の署名欄を見つめた。そこにはレグナス国王の署名と、国章の蝋印がある。だが、この精緻極まる経済の罠を仕掛けたのが、あの若き国王本人であるとは到底思えなかった。フェルゼンを傷つけず、むしろ豊かにしながら、逆らう気力さえ奪っていく。この静かな支配の形をデザインした誰かが、レグナスの宮廷の奥深くに潜んでいる。
「署名せざるを得まい。我々にはこれ以外の選択肢がないのだから」
ルッツはペンを執った。インクの黒が、小国の未来を静かに塗り潰していくようだった。




