59話 平穏か戦いか
「ルネは、私の名前だからです」
どうしてルネを名乗ったかと問われても。
それが自分の名前だからという以外に理由なんてありません。
私が当たり前の答えを返すと、エリオット様は少し残念そうな顔をしました。
「貴族たちはまだルネを探している。平穏に暮らしたければ、偽名を名乗って隠れていたほうが安全だ。大分、健康的になって、貴族たちが探している人相とは変わったから……」
(貴族たちが探している人相とは変わった?)
貴族たちが探している人相について、私は想像ができてしまいました。
(貴族たちは、目の下のクマの特徴で私を探しているの?! 私の人相で変わった部分って、目の下のクマだけだよね?!)
私は腹が立って来ました。
久しく忘れていた怒りに、再び火が付きました。
(失礼しちゃうわ。誰のせいであんな顔になったと思っているのよ!)
「君は、偽名のままでいれば、貴族たちに見つからずに平穏に暮らせるはずだ」
エリオット様は私を心配してくれているのでしょう。
エリオット様やダレス様が、私がルネだと気付いていたのに、黙っていてくれたことには感謝しています。
「平穏には暮らしたいです。でも、もう隠れるのはやめたんです」
「平穏に暮らしたいなら、今まで通り、偽名を名乗っていたまえ。本名を名乗りたい気持ちは解るが、それはほとぼりが冷めてからにするんだ。昨日の調書も、君さえ良ければ、私が偽名に書き直しておこう」
「いいえ。ルネのままにしておいてください」
私はきっぱりと言いました。
「これからは本当の名前を名乗るって決めたんです」
私がそう言うと、エリオット様は深く考え込むように険しい顔をしました。
「何故? 平穏に暮らしたいのだろう?」
「だって私が悪いことをしたわけじゃないのに、どうして私が隠れなきゃいけないんですか。理不尽です」
「君の言うことは正論だ。君は正しい。だが……」
エリオット様は、ひどく暗い眼差しで私に言いました。
「世の中はもともと理不尽なものなんだ。理不尽な世の中で生きていくには、それに合わせて、理不尽でも飲み込む必要があるんだ」
エリオット様の言っていることは、私には多分解ります。
神殿にいたころの私は、エリオット様が言うように、避けられるトラブルはなるべく避けたほうが安全だと思っていました。
波風を立てず、平穏にやりすごすことが正解だと思っていました。
私はそのために周りに合わせて、空気を壊さないように気を付けて、ずっと我慢をしていました。
「私も以前は、理不尽に合わせていました。でも全然平穏なんかじゃなかった。理不尽を突っぱねていなかったら、今でも奴隷のままでした」
「それは……。君がいた環境がいささか特殊すぎたからだ」
「そうでしょうか。理不尽を突っぱねて逃げたら、ちゃんと逃げられました。それで私は、これからは、他人に気を遣うより、自分を優先しようと思ったんです」
「自分を優先するのは良い。だが平穏に暮らすことが君の幸せではないのか? 貴族に狙われては平穏に暮らせないだろう。それに偽名を名乗ることくらいは、大したことではないはずだ」
「私が悪いわけじゃないのに隠れなきゃいけないのは、モヤモヤします。悪いのは、私を捕まえようとしている貴族たちですよね?」
「その通りだ。だが貴族たちは力を持っている。君の言うことが正しいからといって、貴族たちは負けてはくれない。力が強くて勝った方が正義になるんだ」
「でも貴族だって暴力をふるったり、人攫いをしたら、犯罪ですよね」
「それは理想だ……」
エリオット様は小さく溜息を吐きました。
「裁判にまで持って行ければ、罪を犯した貴族を犯罪者として裁くことはできる。だが平民が貴族と争って裁判にまで持っていくことは難しい」
皮肉っぽい笑みを浮かべて、エリオット様は小さく肩をすぼめました。
「貴族と争った平民は、裁判になる前に消されて終わりだ」
貴族を怒らせたら、怖い。
私もずっとそう思っていました。
でもメレディス様のお兄様バーナム子爵令息ローガン様は、貴族でしたがとても弱かったです。
「戦って、勝てれば良いんですよね?」
私が真顔でそう言うと、エリオット様は一瞬目を見張りました。
そして再び、考え込むような顔をして言いました。
「……ああ、闇の神官なら……。戦って勝てるかもしれないが……」
(ん? 闇の神官?)
あれ?
騎士様たちは、闇の神官って噂されてる魔法使いが、私だってことは知らないよね?
あれ?
それもバレてる?
(もう、どうでもいいわ……)
私は少し腹が立っていたこともあり、投げやりになりました。
「エリオット様、闇の神官なら貴族と戦って勝てますよね。貴族を倒して、騎士団に通報すれば、犯罪者として裁けますよね?」
「……そうだな」
「何かあったら、闇の神官に来てもらいます! 犯罪者を倒して、騎士団に通報します!」
私がそう宣言すると。
「……」
エリオット様は頭が痛そうに額に手を当てました。
「そうか……」
しばしの沈黙が流れましたが……。
――チリン。
入口のドアの鈴が鳴りました。
(お客さんだ!)
「いらっしゃいませ!」
私は新しいお客さんを迎えるべく、入口に向かいました。
「こんにちは」
「ダレス様?!」
新しいお客さんは、第二騎士団のダレス様でした。
「昨日のカフェ、効いたよ! 今日も午後から書類仕事なんだ。カフェを飲みに来たよ!」
(お試しが効いた!)
昨日、無料でカフェをふるまって味見してもらった効果があったようです。
営業作戦が成功して、私の気分は上がりました。
「ありがとうございます。お好きな席にどうぞ!」
私がそう言うと、ダレス様はカウンターの席に座りました。
そして軽く驚いたように声を上げました。
「あれ? エリオット様? こんなとこで何してるんですか? 今日は非番ですよね」
「……カフェを飲みに来た……」
「へえ……」
ダレス様は少し含みがあるような微笑を浮かべました。




