30
紅の髪が風に揺れる。バルコニーに置いたガーデンチェアに座りながら、カナリアは星が瞬く空を眺めていた。
ぼんやりと座っているように見えるが、彼女の頭の中は今、自分に笑う漆黒の青年に埋め尽くされており、緊張の糸が張り詰められている。
「……はあ」
憂いを帯びた溜息は、静かに夜に溶ける。
これから自分の護衛をしてくれるはずの男を思い出すだけで、カナリアはモヤモヤと心に靄が掛かった。
――もしも、深い意味があったら?
クロウとの会話は、人生で一度もしたことがない内容で、混乱することばかりだった。
歌に全てを捧げてきたカナリアは、恋も友情も不必要として切り捨て、それを別世界の話のように思っていたからだ。
だが、ここにきて、クロウやロビン、クレインとの関わりや、レイヴンという名の異質な存在に、カナリアの世界が変化してきている。
「……恋、ね」
レイヴンを擁護するクロウの言葉に、偽りはないように思えた。
ただの距離感バグ男ならば、カナリアも気にするだけ無駄だと、ホウゴロウのように割り切れる。
けれど、本当に彼が少なからず、自分を恋愛的に見ているのであれば、カナリアはそれを断ち切らせなければならない。
彼が自分を知ろうとするならば、それを拒絶し、いっそ嫌われるように動かなければならない。
何故なら、彼女は知っている。
卒業の日、自ら望んだ終幕の果てに、全てを置き去りにして去ることを、彼女は既に決意している。
本当は、誰にも情を持ってはいけない人生だ。
「カナリア」
低めのアルトが、カナリアを呼ぶ。
いつの間にか、音も無く、バルコニーにやって来たレイヴンは、その場で優しく微笑んでいた。
前回のように不躾に近付くことはせず、椅子に座るカナリアを見つめる彼は、口を開く。
「クロウお嬢様の命により、貴女をお迎えに来ました。遅くなる前に早く行きましょう」
「……え、ええ」
似合わない敬語と恭しく下げられた頭。
あまりにも紳士的に振る舞うレイヴンの様子に、カナリアは面食らいながらも立ち上がる。
そして、彼を訝しげに見た。
「その様子だと、クロウさんにしっかりと叱られたようですわね」
「ええ、それはもう、こてんぱんに」
「当然ですわ。貴方の馴れ馴れしさは、有り得ませんもの。これからもずっと、そうやって弁えなさい」
呆れたように言い放ったカナリアに、レイヴンは眉を下げて笑う。
弁えた距離と敬語、カナリアがずっと求めていた対応だが、離れて待つ彼との距離が、そのまま心の距離のように感じた。
カナリアは一瞬、瞳を伏せる。
その一瞬で、レイヴンの纏っていた空気が変わった。
「あっれー、ちょっと寂しいんじゃないの。他人行儀でさ」
「はあ? そんなことある訳ないでしょう。敬語を戻しなさい」
「そんなこと言って、敬語で話されるの嫌だろ? さっきと反応全然違うし。わっかりやす〜」
ケラケラと、いつもの調子で笑うレイヴンが、カナリアへ歩み寄る。
眉を寄せて、睨み付けてくる彼女に、レイヴンは自分の手をその頭に乗せた。
「ごめん、俺が無理なんだわ。カナリアに、さっきみたいなのやりたくない。俺が寂しい」
優しく頭を撫でる大きな手と、切なそうに目を細めて笑う顔。
いつも通りの距離感なはずだけれど、いつもと違う様子のレイヴンに、カナリアは固まる。
早くその手を叩き落とさなければならないのに、捨てられた子犬のように悲しそうな目をしている彼に、そんな気が起きない。
「……落ち込んでますの?」
カナリアの言葉に、レイヴンの手が止まる。
ゆっくりと自分から離れた手を一瞥し、感情を見せない漆黒の瞳を、カナリアは覗き込んだ。
「クロウさんに、どれだけ叱られましたのよ?」
「……クロウ嬢様からのお叱りは、ご尤もだったから。でもやっぱり、態度って急に変えらんないしさ。別に落ち込んでないよ」
「そう……、彼女の不安が的中しましたわね」
「不安?」
「言ってましたわよ、クロウさん。叱っても、聞き入れないかもしれないって」
「あっはは! まあ、長い付き合いだから分かるよね」
可笑しそうに笑ったレイヴンに、カナリアが溜息を吐く。そして、チラリと時計を見てから、裏口を指差した。
「さっさと行きますわよ。私、裏口から出ますから、待っていてちょうだい」
「うん、分かった」
部屋から出て行くカナリアの後ろ姿を、レイヴンがバルコニーで見送る。
先程まで触れていた彼女の温もりを感じる手を見つめ、静かに瞳を伏せた。
「……急な告白じゃない」
ずっと、会いたかった。
漸く、会えたあの人は、話し通りの高飛車で我儘、我が強く、魔法も強い、上から目線なお貴族様の娘だった。
話し通り過ぎて、面白かったし、いけ好かないとも思った。
けれど、強さの裏に隠された脆さと、何もかもを飲み込んで我慢することに慣れ切ってしまった姿を見た時、どうしようもなく抱き締めてやりたくなった。
「俺は知ってるよ、カナリア。アンタのこと、前から知ってる」
頭を撫でられるのを嫌がるくせに、自分が初めて頭を撫でた時、彼女は小さな少女のような顔をして、その瞳を輝かせていたことを、きっと彼女は知らない。
ロビンの家族と食事をしていた時も自分の家の話をしていた時も、無表情の彼女から漏れ出る寂しさと焦燥は、見ているだけで辛かった。
まだ、彼女にとっては出会ったばかりの男。
何一つとして知らない男を警戒するのも、無理はない。
けれど、これから関係を築くことは出来る。
彼女の寂しさごと抱き締めて、彼女の隣を歩くことだって、出来るはずだ。
「……絶対に諦めねぇから、覚悟しろよ」
裏口から出て来た紅の髪を見てから、レイヴンはバルコニーから飛び降りる。
いきなり上から降ってきた男に驚いたカナリアを見て、彼は楽しそうに歯を見せて笑った。




