第七十九話
――魔女は、夢を見る。
それは過去の夢。過ぎ去った夢。終わってしまった夢。
願いと妄執を“理”とし、魔法を行使する魔女達は、常にその記憶に、夢に囚われ続ける。
「私達、ずっと友達だよね」
昔のあのころのままの姿の少女が、そう心配そうに問う。
その言葉に苦笑して、何を当たり前のことをと返す。
「……だって、私、人間じゃなくなったんだよ?魔女に、化け物になっちゃったんだよ?」
それこそ何をというもの。彼女が魔女に至ったのは自分を助けようとしたが為。感謝し、謝罪することこそあれ、恨んだり嫌ったりする理由は無い。
「そっか。えへへ、ありがと」
照れたように礼を言う姿にドキリと心臓が高鳴る。女同士で何をと分かっていても、この胸の高鳴りは誤魔化せない。だって、彼女を、愛しているから。
「ねぇ、リコリス。私が、絶対守るからね」
誰よりも、何に変えても守りたかった少女の言葉に胸が締め付けられる。
これは、夢。
遙か遠き夢。
“九尾の魔女”――リコリス・ラディアタの原風景。
◆◇◆◇◆◇
「――――」
殺してくれ、と男は呟いた。
もっとも爛れた喉は二度と言葉を発することはできず、人工呼吸器を填められた口は音を漏らす事すら叶わなかったけれども。
全身を余すところなく包帯に包まれ、様々な機器につながれた姿は、外目から生きているのか判断を付けれるものが心拍数を示す電子画面くらいの有様だった。
男は少し前まで東京で頻発していた謎の怪物――魔獣による被害者で、“運悪く”生き残ってしまったものだった。
「――――」
指が辛うじて引き攣った様に動く。ただそれだけで全身に針を突き刺したかの様な痛みが走る。男を襲った魔獣は火を吐く個体だった。彼は不幸にもそれに出くわし、不幸にも生きたまま全身を炙られ、不幸にも息絶える前に魔獣は討伐され、不幸にも彼は全身を重度の火傷に蝕まれたまま、この病院で延命させられている。
もう、たくさんだ。もういい。終わらせてくれと、この苦しみから解放してくれと縋る言葉は音にはならず。常に、呼吸ですら走る激痛と麻酔で朦朧とした意識は彼から生きる希望と意味を根こそぎ奪い取っていた。
「死にたいのかえ?」
……耳元で、そう囁く声が聞こえた。
「苦しみから解放されたいのかえ?」
その声はとても優しく、その提案はとても魅力的だった。
――楽にしてほしい。
そう願った。男にはもはやその声が現実なのか夢なのかを区別をする余力は無く、ただこの苦痛から逃れるために願う。
瞬間、その声の主が優しくほほ笑んだ気配を感じる。
そしてそれっきり。何の痛みも無く、何の苦痛も無く、男の意識は永遠に闇に包まれた。
「眠るとよい。それが唯一の救いじゃ」
既に息絶えた男の頭を、優しく、母が子にするように撫でるのは朱の着物を纏う、金毛白面の狐耳の少女。……“九尾の魔女”
「――それは、趣味?」
「半分は、そうじゃのう。……覗き見とは趣味が悪いの、“界渡りの”」
頃合いを見て話しかけたのは愛緋。男の命を奪った事には何の感慨も抱いては居ないが、その死にかけの人間をわざわざ殺して回るという行為は彼女の目にも奇特なものに見える。
その問いに曖昧に笑って返す“九尾の魔女”。まるで趣味に熱中した姿を知り合いに見られ、気恥ずかしそうにするような様子。少しだけ批難するような口ぶりも淡々としたものだ。
「別に。止める必要も、無かったから、待ってただけ」
「話しかけられても手元が狂うようなものでもないが、気遣いは感謝しておこうかの」
最後に一撫で、男の頭を撫でた九尾の魔女が愛緋と向き合う。その眼光に油断は無く、気を抜けば次の瞬間には自分が殺されてしまいそうな悪寒を愛緋は覚える。
「それで、何の用かの?」
「……“御使いの”を殺すって目的は、変わらず?」
「変わらずじゃ。なんじゃ?主もアレとはどちらかと言えば敵対しておるじゃろう」
「別に、積極的に、敵対してる、訳じゃない。
……それは、自死の願望が消えたとしても?」
「――なに?」
“九尾の魔女”は死にたがりを求めている。
死にたいと楽にしてほしいとそう願うものの前に現れ、その魔法を持って命を奪う。それが九尾の魔女の願いの一つの面であるが故に。
かつてのアーニャ・ガランサスはまさしく“九尾の”にとっては獲物であった。ティアナを喪った後悔は深く、それは死を想うほどに。しかしアーニャは何があろうともそれを選ばない。復讐と、残された願いと、それが果たされぬ限り、死などという都合の良い終わりは求めない。
「彼女は後悔を、乗り越えた。もう、貴女の求める、死にたがりじゃない」
「…………」
そこから救い上げたのは、竜胆悠。
アーニャには以前のような死への願望は無い。ティアナを喪った悲しみと後悔は変わらず胸を抉り、彼女を殺した“九尾の魔女”への憎悪と殺意は変わらず胸を焼き、彼女の残した善を行いたいという使命感は変わらず胸を締め付ける。
それでも、それ以上にアーニャは悠と共に歩みたいと願ったから。
「手を引いて。そして元の世界に帰って」
「……“御使いの”が立ち直るなどあり得ぬ。アレは妾と似てる。絶対に立ち直りなどせぬ」
「信じられない、と?」
「信じるに足る情報も無いのでの」
愛緋の言葉をしばらく噛みしめた後、信じられないと切って捨てる九尾の魔女。
愛緋の目的は、「悠の生存」だ。彼女にとってアーニャの生死は特にウエイトの占めない問題だが、アーニャが死地に向かうとなれば十中八九……いや、十の中の十、悠はその死地に首を突っ込む。首を突っ込んできた悠を見逃す程九尾のは優しくも無く、憂いを残すほど愚鈍でもない。
「わざわざそんな嘘はつかない。それに貴女の魔法は、“拒絶の魔女”の魔法とは、相性が悪いでしょう?無理に戦う必要は――」
「“拒絶の”だと?」
瞬間、空気が変わるのを愛緋は感じた。
「生きておった……?いや、間違いなく殺した筈……殺し損ねた……ありえぬ……」
いつでも詠唱破棄で魔法を扱える気構えのまま、愛緋は警戒をして“九尾の魔女”見る。ブツブツとうわ言のように呟く姿に、愛緋は底知れぬ不安を抱く。
ひとしきりうわ言を呟いていた九尾の魔女が頭を上げ、小さく一言。
「生かしてはおけぬな」
「ッ、待って。……悠さんは元の“拒絶の”とは別人」
「だから見逃せと?聞けぬ。妾が殺し損ねるなど、何があっても赦されぬ」
最悪だ――と愛緋は歯を食いしばる。九尾の魔女が“殺し損ねた”という事に対してそこまでの執着を見せるなど、予想外だった。なにせ、彼女が殺し損ねた等という事実は、一度も聞いたことが無かったから。
「…………ハァ、貴女と話したのは、悪手だった」
「主は、そちらに付くのじゃな」
「……えぇ、そう」
「そうか、残念じゃよ」
残念そうにそう言った瞬間。
コンマ数秒前まで愛緋の首があった所を鷲掴みにしようとする九尾の魔女の手があった。
尤も、そのコンマ数秒で愛緋は部屋の隅にまで転移しており、その手は空を掴むばかりだったが。
「……逃げ手は殺したつもりじゃったんだがのう」
「私は、ずっと、逃げてきた。それこそが、私の願いだから。だから……その程度で私を捕えれるとは思わないで」
捕まえる事が出来なかったのが意外、という風に言う九尾の魔女に、内心冷や汗をかきながら愛緋は返す。警戒していなければ今の一撃でもっていかれてたという確信がある。
「……主を殺すのは骨が折れそうじゃの」
「交渉は決裂。出来れば二度と、会いたくない」
「連れぬのう」
本心からの愛緋の言葉に、ケラケラと笑いながら返す九尾の魔女。その様子に不快げに眉をしかめながらも、いつ不意打ちで殺されるか分かったものではない愛緋は、これ以上の長居は不要と言葉も無く転移で完全にその場を去る。
さて、追ったものか――と九尾が思案するが、室外からのあわただしい物音に断念する。
「大丈夫ですか!」
慌てて入室してきたのは数人の看護師。一目散にベッドの上の、既に事切れた男性に声を掛ける。
脈、呼吸を確認し、表情を青ざめさせて慌ただしく処置を施していく。
「もしもし!――意識無し」
「呼吸、無し。心肺停止……AED持ってきて!」
「ハイ!」
死んだ者は蘇らない――
だからこそ死ぬ前に引き戻す。そんな彼らの奮闘を、九尾の魔女は完全に気配を殺したまま眺める。
「……そうか、“拒絶の”か」
殺し損ねるなど許されない。何故ならそれが彼女の願いだから。
――絶対に殺す。




