第六十五話
――ごめんなさい。
ああ、何度その言葉を口にしたのだろうか。言葉は口にすればするほど、その価値は軽くなる。ならば私の謝罪の言葉のなんと軽い事か。その羽毛にも劣る軽薄な謝罪の言葉をせめて積み重ねようとして、そしてまた軽くなる。
――ごめんなさい。
魔獣が悠の手を取り、そして指の一本をゆっくりとへし折る。悠の悲鳴が耳にこびり付いて離れない。その悲鳴も、最初と比べれば随分と弱弱しくなった。
――ごめんなさい。
“界渡りの魔女”が顔をしかめながら苦痛に喘ぐ悠を見ている。一体何の目的で“前知の”に手を貸しているかは分からないけれど、許せない。絶対に、許されない。
あぁ、でも、本当に許されないのは私。悠を巻き込んだのも、護れなかったのも私。
――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……
“やっぱり私は、救われちゃいけなかったんだ”
私の心の奥深くのどこかで、何かが割れる音がした。
◆◇◆◇◆◇
――黄昏の中を風よりも速くエランティスは駆ける。その旨に焦燥と不安を抱きながら。
(クソッ、どうなったのだ!)
駆けながら探査の魔術を発動させたところによると、竜胆悠の魔力が感じられるが、アーニャ・ガランサスの魔力が感じられないのだ。
悠の魔力が感じられないのであれば分かる。“誰我接触不叶”は探査の魔術すら弾く究極の拒絶の魔法。発動すればあらゆる干渉が届かない。だが、アーニャの魔力が感じられない事がエランティスの精神を蝕む。魔力が感じられない――それは探査の魔術の範囲外に居るか、隠蔽か阻害の魔術で魔力を小さくして隠しているか、或いは既に対象の命が喪われているかだ。
悠を置いたままアーニャだけが離脱して大きく離れるとは考え難い、悠が魔法を発動していない状態で、アーニャだけが隠蔽の魔術で身を隠すとは考え難い。だとすれば――
(死んで、くれるなよッ)
力なく感じる悠の魔力に向けて、エランティスは全力で駆ける。一縷の希望に心を託しながら。
そして、彼は悠の魔力が感じられる場所に着いた時、喝采をあげたい衝動に駆られる。横たわる悠の隣に寄り添うようにしているアーニャの姿を確認する事が出来たからだ。
悠に回復魔術をかけているのか、淡く柔らかい、蛍の様な光が弱々しく光っている。生きていた、生きていてくれた。その事だけでも大きな戦果だったと言える。
だからこそ、その戦果に目がくらんだ彼は気付けなかった。なぜ回復魔術を掛けているアーニャの魔力を殆ど感じる事が出来ないのか、探査の魔術に掛からぬほど小さくなった魔力の、その意味を。
「アーニャ・ガランサス…… 無事であったか……」
安堵のため息と共にアーニャに声を掛けると、彼女はビクリと身体を強張らせた後、ゆっくりと振り返る。
「エラン……ティス……」
「ッ、汝……」
エランティスの名を呼んだ声は掠れ、童女の様に泣きはらしたアーニャの表情に、再びエランティスに嫌な予感がよぎる。不幸にもそれは、すぐに予想の通りであった事を思い知らせられる。
「お願い、悠が、ぐすっ、治らないの。私、魔術が下手だったから、ひぐっ、才能なかった、から」
「……退け」
エランティスの言葉に、アーニャが恐る恐るといった様子で悠から離れる。入れ替わる様にして近づいたエランティスは、悠の姿を見て、思わずうめき声をあげる。
気を失い、横たわる悠の姿は、凄惨なものだった。
まず目を引くのは四肢の骨折。事故ではなく、明確に加虐の意思を以て折られたのであろう、指の幾つかを折られている。
頬を伝う黒く乾いた血を見る限り、口内だけでなく内臓もいくらか痛めているだろう。吐血の量はかなりの量で、下手すればそれで窒息しても不思議ではない。
体中、無傷であるところを探すのが困難な程に刻まれた打撲跡は暗紫色に染まり、内出血と炎症を起こしている事が一目でわかる。
「竜胆、悠……」
拷問、と呼んでも差し支えは無いだろう。徹底的に、執拗に、気絶する事すら許されずに痛めつけられた跡が見て取れる。
生存を危ぶむ程の怪我の様子だが、幸いにも弱々しい息はしており、控えめな胸が僅かに上下していた。
「私、何も出来なかった。悠が酷い目にあってるのに、私は、何も……」
アーニャの嗚咽と共に吐き出される言葉と共に、ギリ、と歯が軋む音が聞こえ、口の中に鉄の味が広がる。エランティスは裏で糸を引いていたものの思惑に気付き、憎悪と共に血が滲むほど歯を食いしばったのだ。
戦いに、そして痛みに慣れていない悠を徹底的に傷つけて心を折り、アーニャを無力化して悠への拷問を見せつける。成程、確かに有効だろう。二人の戦いの経験値と性格を考えれば、効率的な処置の仕方だ。
「“前知の”…… そして“界渡りの”め……」
憎悪の呻きが漏れる。憤怒に染まった魔力が周囲を渦巻き、それに触れた草木が枯れ落ち、土は乾き、空気が腐る。
“前知の魔女”が何故今更こちらに刃を向けたか、そして何故“界渡りの魔女”が前知のに組したのか、分からない事だらけだが、一つだけはっきりとしていることがある。
悠を、仲間を傷つけた、それだけで彼女らを憎むに足る理由で、それだけで三千世界の果てまでも追いかけてその喉元を食い千切るに足る理由だった。
しかし彼女たちを憎んだとしても悠の傷が癒えるはずも無い。そして憎悪に染まった魔力で回復魔術が正常に発動するはずも無い。無理やり心を落ち着かせながら、エランティスは悠に回復魔術を発動させる。淡い光が、しかしアーニャのものとは比べ物にならないほど大きな光が、悠の身体を包む。つい、痛々しい外傷に目が行ってしまうが、優先すべきは“中身”だ。吐血や内出血で呼吸器や神経を圧迫すれば命の危険がある。
エランティスは慎重に回復魔術を維持する。悠がまともに動けるようになるまではあと数刻の時間が必要だろう。魔法を発動させて霊子化したアーニャの様な超回復は特例中の特例だが、あのように回復してくれれば……
と、エランティスはそこまで考えてふと気付く。先ほどのアーニャの魔術が幾らなんでも弱すぎた事に。魔女が魔術を発動させるとき、その過剰な魔力を存分に使用する為、燃費を度外視した強力な魔術が現象する。元来は魔術が不得意であったアーニャでも、その魔力量にものを言わせた回復魔術を発動させれば、あのような弱弱しい魔術にはならないはずだ。いや、そもそも“癒し”の属性の天使が居る以上、その魔法を発動させれば魔術とは比べ物にならない程の効果を得られるはずだ。
それを行わない事は、まさか―― 再びエランティスに確信に近い嫌な予感がよぎる。
「アーニャ・ガランサス……汝、まさか……」
「ゴメン、なさい、エランティス……私、壊れちゃった」
エランティスの問いに、まるで叱られる子供の様な怯えた目をしながらアーニャが答える。
壊れた、“天衣無縫乃理”が。
その事実を聞かされた時、「あぁ、やはりか」という思いと、「終わりか」という二つの思いが浮かぶ。
「……そう、か」
「ゴメン、ごめんなさい……」
謝罪をしながら再び大粒の涙をポタポタと零すアーニャと、目を閉じたまま空を仰ぐエランティス。
二人の心を等しく占めるのは諦観と悲嘆、そして抗えぬほどの絶望だった。
◆◇◆◇◆◇
アーニャとエランティス、その二人の絶望を眺める女が一人。“前知の魔女”リモニウス・スターティスだ。
その顔は淫蕩に塗れ、愉悦に歪んでいる。特に子供の様に泣きじゃくり、遂に魔法が壊れてしまったアーニャの表情がたまらないと、リモニウスは身を悶えさせる。
「んっ……フッ……ふぅ……うふ、うふふ、うふふふふふふふふ。
あぁ、いい顔ね。最ッ高よ」
堪えきれぬ笑みが漏れ、艶めかしく舌なめずりをする姿は蛇を思わせる悪辣さがあり、見る者には恐怖の感情を与える。
「貴女は、最低だね」
「あらぁ、お帰りなさい“界渡りの”ちゃん?」
それを、まるで路端のゴミを見るかのように顔をしかめ、不快そうに見下ろすのは“界渡りの魔女”、愛緋――いや、アイヒホルニア・クラシペス。不快感を隠そうともせず、吐き捨てるように言い放つ。眼前に居たとしても気付かぬのではないかと思われる程希薄な気配は、後ろに立たれれば達人であろうとも捉えることは出来ないだろう。背後から吐き捨てられた言葉に、特に驚いた様子もなくリモニウスは答える。例えどれ程希薄であろうと、話しかけられる事を前以て知っている彼女に驚愕は無い。
「……コレで、満足?」
「そうね、出来ればもう一押し欲しかったけど……上々ね」
もう一押し、の内容に想いを巡らせてニヤリと笑うリモニウスに、愛緋は再び眉根を寄せて顔をしかめた。その正確な内容は想像も出来ない程下衆な考えという事は想像に難くない。愛緋はこの魔女の事が嫌いだ。人の心の触れて欲しくないところに土足で踏み荒らす事に快感を覚える異常者を好む人間はいないだろう。だがそれでもこの外道の手を借りなければならなかった理由は――
「本当にこれで、ユウさんが死ぬ事は、無くなるん、でしょうね」
「それは間違いないわ。竜胆悠はこの闘いの傷から、刻まれた恐怖立ち直る事が出来ず、二度と闘いの場に出てくることは無い。
後に現れる“九尾の魔女”と闘うこともない」
“九尾の魔女”。その名を聞いて愛緋は体感温度が下がったような感覚を覚える。“界渡りの”と“九尾の”。共に『千年級』の魔女だが、その実力差には一つの壁がある。『逃避』の願いによって顕現した“異界至無窮門”は、戦闘向きの魔法ではない。戦を忌諱し、闘いを拒んだ故に至った境地。それが戦闘向きの魔法と相対したとき、同格の魔法であれば“異界至無窮門”に軍配が上がる可能性は限りなく低い。それも最強クラスと名高い九尾の魔女であれば特に。
悠とアーニャの目的を聞いたとき、正直な感想を言うならば「狂っている」だ。
不完全な『百年級』と『十年以下』で勝てる可能性など0に等しい。相対して生き残る事すら不可能だろうと言うのが愛緋の目測だった。そして二人と戦い、それは確信となる。あの程度の実力では自分を倒せる確率すら皆無だろう、と。
だから、壊した。
どのような決意を持ってそこまで至ったかは知らないが、単純に悠に死んで欲しくないという自身のエゴに従って。
たとえそれで彼らに恨まれることになろうとも。
「そう、じゃあさようなら。
……今回は、利害の一致で、手伝ったけど、二度とわたしの前に、現れないで」
「心配しなくてももう二度と無いわよぉ。ボーイフレンドと仲良くね」
その言葉を言い切った瞬間には、10体もの黒鉄の甲冑を着た騎士が、鎧と同じく漆黒の西洋剣をリモニウスの喉、襟足、心臓、眉間、その他人体の致命的な急所に当てがっていた。あとほんの少し力を加えるだけで、その命を確実に刈り取ってしまうだろう。
「…………念の為、言っておくけど、タツヤを、害するような事するなら、殺すよ」
「あら、こわぁい。大丈夫よ、私は『千年級』と正面切って戦うほど馬鹿じゃないもの」
「……そう」
それだけを確認したかったのか、次の瞬間には愛緋と黒鉄の甲冑達は影も形もなくなっていた。まるで最初から何も居なかったかのように、気配も痕跡すらも残さず。
誰もいなくなった空間に、リモニウスの堪えきれない笑いが響く。
「くふっ、くくく……本当、扱い易い子ね。“界渡りの”」
どいつもこいつも馬鹿ばかり。
釈迦の手の上で回り続ける猿のよう。
ならばせめて、私の役に立て。
私を楽しませるだけの三文役者になればいい。
その愉悦に浸りながら、“前知の魔女”リモニウム・スターティスは狂ったように笑い続けた。




