第六十一話
パニック。日本語で言えば恐慌。
僕たちはその中を平然と歩いている。正確に言えば、平然と並んで歩くアーニャとエランティス。アーニャのすぐ後ろをおっかなびっくり歩く僕という様だ。
いやね、二人にとっては当たり前なのかもしれないけど、正直今の状況は、少し前までいち小市民だった僕には非常に心許ない。
この状態を説明するのは難しくない。いきなり話しかけてきた婦警さんを気絶させたエランティスは、遠吠えと共に何かの魔術を発動させた。それはまるで超音波の様な金切声をあげながら広がり、周囲の窓ガラスを触れることなくすべて割り、植栽や装飾品を吹き飛ばす。
まるで室内に突然発生した台風を思わせる暴風に、周囲は一気に恐慌状態となる。
(威嚇、にしてはやりすぎだよ……)
悲鳴と絶叫の中、歩みを始める二人を慌てて追いながら僕は心の中でため息を付く。警察署に乗り込んで、破壊を振りまきながらズンズンと突き進むなんて、テロリストになった気分だ。いや、実際テロリストとやってる事はかわらないんだろうけど。
その後もエランティスは、時々鳴き声と共に周囲の物を無作為に吹き飛ばしていく。僕に分からないだけで本当は狙いがあるのかもしれないけど、傍目には無作為に見える。
しばらく歩いていると、少し開けた吹き抜け状のホールに出る。既に避難は済んでいるのか、人ひとり見当たらない静かな空間。それを引き起こしたのが自分たちであるというのが随分と申し訳ないのだけれど――と、その時、唐突に二人の歩みが止まる。すぐ後ろを歩いていた僕はビクリと身体を震わせながら立ち止まると、二人の呟きが耳に入る。
「……やはり誘い込まれたか」
「そのようね。いくらなんでも数が多い」
「え?何が……ってうわっ!?」
エランティスとアーニャが何を言っているか分からなかったけれど、その答えは親切にもすぐに身をもって知る事となる。
刑事ドラマや映画でたまに見るシーンだ。大盾とヘルメットを装備した機動隊が、機敏な動きで他の通路から飛び出してきて隊列を形成し、盾と自動小銃を僕たちに向け、構える。おぉ、凄いなぁ。何とかの大捜査線みたいだ。
ただ、ドラマや映画のシーンの様な『正義』側の出演者である彼らと、僕らに銃先を向ける彼らとの間には隔絶した差がある。“目”だ。その目に宿る狂気の光が、彼らが決定的に正義側の存在ではない事を物語っている。一様に赤く血走った眼球と開いた瞳孔がヘルメットの間から覗き、過呼吸かと思われる程の荒い呼吸と震えが、まるで末期の麻薬中毒患者を連想させる。……“前知の魔女”の仕業か。
「エランティス、大丈夫だよね?」
「この程度、問題ない」
「いや、君の方じゃなくて」
僕が心配しているのはエランティスやアーニャの事ではなく、彼らの方の命だ。アーニャの強さはこれまでの修行で身に染みて知っている。彼女なら、魔法を使えばたとえ現代兵器でも彼女には傷一つ付ける事が出来ないだろう。そのアーニャより強いというエランティスも。ただ、エランティスについての心配事は、手加減とか、そういうものをしている姿が想像できない事だ。むしろ彼らを血まみれにして不敵に笑うエランティスの姿を容易く想像してしまい――
「え、エランティス?ホントに大丈夫だよね?死なせたり、しないよね?」
「くどいぞ。我とて無用な殺生は好まぬ。魔力に当てられたもの相手の命までは奪わぬよ。
だが、襲いかかってくるなら骨の一つや二つ、覚悟してもらおうか」
……心配だなぁ。
不穏な事を呟くエランティスに、正直不安を拭いきれない。
「動くなッ!!!手を上に挙げてそのままゆっくりと伏せろッ!!」
隊長らしき男性が声を張り上げて叫ぶ。どうしようかとアーニャの方をチラりと見ると、平然と目を閉じ、言われるがまま両手を軽く上げている。僕はそれに習い、両手を軽く上げる。抵抗する様子のない僕達を前に、彼らの間に少しだけ安堵した空気が流れる。うーん、油断しない方がいいと思うけどなぁ。
「い、犬?」
その時、最前列に居た隊員の一人が目の前を堂々と歩き、近づいてくる白く長い毛に覆われた子犬に気付く。もちろんそれはエランティスで、それが彼らの現在相対すべき敵という事に気付くことも無く。
「なんのつもりか知らぬが、魔術の一つも扱えぬものをいくら寄越して来ようとも無意味だぞ。
……跪け」
目の前で子犬が喋りだした、という事実を認識し切る前に、彼らはエランティスが発動させた魔術を受けてなすすべなく押しつぶされ……ない?あれ、ギリギリで抵抗してる?
彼らはまるで重い何かを背負っているようにしながら腰に力を入れ、なんとか耐えている。以前僕を襲って連れ去ろうとしていたチンピラ達の時みたいに、地面に這いつく様に押しつぶされるのを想像していた僕は少々面食らう。
「む、障壁か?成る程、装備に魔術を掛けて、此方の魔術に対処しているのか。だが……
舐めているのか?魔法なら兎も角、貴様ら魔女の魔術程度で、我の足止めが叶うとでも?
もう一度云おう。跪け!」
先程と同じ言葉を、今度は少し語気を強めてエランティスが言い放つと、目の前の空間が歪んだような錯覚を覚える。一瞬遅れて、その空間の中に在るもの全てが地面に叩き付けられた。いや、地面すらも押しかかる圧力で圧迫され、ひび割れている。さっきとは比べ物にならないほどの圧力を受け、今度は初めにした想像に違わず、彼らは地面を這う羽目になった。
「ぅ、わっ」
どうやらこの魔術、辺りの空気すらも叩き付けているらしく、気圧の差によって範囲内に向かって引き込むような風圧が発生している。急な突風に思わずたじろき、僕は一歩だけ後ずさる。と、その瞬間、僕の周りから薄いガラスが割れる音がいくつも響く。それはパリン、パリンと小気味のいい音を加速的に増やしながら、不吉な予感を僕に伝えてくる。
「っ!?なにこれ!」
「なんだとッ!!?」
「妨害の術式を破って転移魔術ですって!?悠!私の手を離さないで!!」
伸ばされたアーニャの手を反射的につかむと、その手を強く握り返される。その次の瞬間には先ほどまでの警察署内の風景は一変し、開けた、どこかの自然公園の様な場所に僕たちは立っていた。周囲を見回しても、数十メートルはただ芝生が広がり、人ひとり居る様子は無い。もし手にアーニャのぬくもりが伝わっていなかったら、かなり不安になっていたところだ。隣を見ると、アーニャは僕の手を繋いだまま深刻な表情で考え込んでいる。
「……分断されたわね。これが“前知の”の目論見かしら?」
「え、エランティス、大丈夫かな?」
「“前知の”相手は問題ないでしょうけど……」
「何その歯切れの悪い感じ…… すごく不安なんだけど」
“けど……”というアーニャの歯切れの悪い言葉に、再び不安が過ぎる。
「……“前知の魔女”の魔術ではどんなに魔力を込めても、エランティスの『転移妨害』の術式を破るなんて不可能な筈なの」
「それって……」
どういうこと――そう言葉を続けようとした瞬間、視界の端に人影が過ぎる。
そう、さっき周囲を見回した時には誰もいなかった筈なのに。
◆◇◆◇◆◇
……分断されたか。いや、それよりも――そうエランティスは思考を回転させる。状況は確かに先ほどより悪化したが、最悪ではない。不幸中の幸いで悠とアーニャが同時に飛ばされた為、まだ戦闘に慣れていない悠のフォローをアーニャがすることが出来る。2対1であれば魔法が戦闘向きでない“前知の魔女”相手に後れを取る事はないだろう。
問題は、何故『転移妨害』の術式がやぶられたか、だ。“前知の魔女”程度の魔術の腕では、どうあがいても超える事の出来ない強度の術式を込めた筈――そこまで思案した瞬間、喜色を隠そうともしない上機嫌な声が響く。
「流石は嵐壊の魔獣さん。私の罠をあんな力技で悉く潰してくれるなんて、少し自信を失うわ。もう少し楽しんでくれてもいいのに」
倒れ伏す警察官達を道端の石としか思っていないかのように足蹴にしながら、“前知の魔女”リモニウム・スターティスが現れた。
「貴様の酔狂に付き合う趣味はない。尤も、あの程度先に潰さずとも仔細ないがな。
それよりも……その名で呼ぶな」
「あぁ、ゴメンなさい。拒絶の魔獣、だったわね?」
“嵐壊の魔獣”、既に捨てた過去の名で呼ばれたエランティスは不機嫌そうに声を低くする。それに対するリモニウムの、欠片の誠意も込められていない謝罪
「……意外だな。貴様の事だから、彼方に現れると思っていたが」
「そう?私、貴方の事も好きよ?」
「ハッ、悪寒が走るわ、破綻者めが」
「アッハ、そう?ところでエランティス、気になっていたのだけれど……
“幸運の魔女”の肢体は、美味しかった?」
「……ほざけッ」
エランティスの咆哮と共に再び暴風が巻き起こり、竜巻が生まれ、前知の魔女へと突き進む。しかしそれを予測していたかの動きで躱されてしまう。前知の魔女にとってあらゆる攻撃は予測範囲内の攻撃であり、それを回避する事は容易い。しかし、回避が容易いと言えど、エランティスの攻撃が油断できるものではない。前知の魔女に躱された竜巻はコンクリートの壁にぶち当たり、その壁面をまるで砂の壁を崩すかのようにボロボロと崩れ落とした。
「あぁ、怖い、怖い。この“嵐”に巻き込んだあらゆる物体を分解して、崩してしまうのでしょう?私程度の魔術障壁じゃ、障壁ごと粉々ね」
そう、それこそがかつて“嵐壊の魔獣”と呼ばれたエランティスの誇る魔術だ。この魔術の前にはあらゆる強度が意味を成さない。例えそれがダイヤモンドより固くとも、ゴムよりも弾力があろうとも、崩し、壊し、塵へと変える。
「試してみるか?」
「お断りするわ。その結果は“知っている”から」
「ならば、その予知通りの結末を逝くがよい」
エランティスの嵐を避けながらも上機嫌な前知の魔女は、挑発を受けながらもクスクスと嘲笑し、不気味なニヤけ面を浮かべる。芝居掛かった仕草で、大袈裟に嘆いたフリをしながら、口だけで傷付いたと宣う。
「酷い言い草ね。せっかくあなた達がずっと探していたものを連れてきているというのに」
「ずっと探していたもの、だと?」
前知の魔女の言葉に、エランティスの脳裏にある懸念が過ぎる。いや、懸念は初めからあった。今、相対している魔女は、あまりにも余裕で、あまりにも自然体で、そして、あまりにも浮かれているのだ。
「“あれ”に対して、壊れかけの『百年級』と、『十年以下』でどれだけ抗えるのか、本当に楽しみ」
「まさか、貴様……ッ」
そして続く言葉に懸念は確信に変わる。自身の『転移妨害』を破り、悠とアーニャを連れ去り、前知の魔女がこれ程までに悠長に構える事が出来ている理由を。
確かにそれは強く追い求めていたもので。
確かにそれは出会わなければならなかったもので。
だからこそそれは、出会ってはならないもの。
「さぁ、『千年級』の力、見せてもらおうかしら」
“前知の魔女”は勝利を確信した笑みを浮かべながら宣言をする。
或いはそれは、初めから決まっていたものだったのかもしれない。
◆◇◆◇◆◇
「愛緋ちゃん?なんでこんな処に」
「…………」
そう、そこに居たのは愛緋ちゃんだ。普段と変わらないゴスロリの様な姿、目元を隠す黒いストレートロングの髪を垂らしながら、いつもの様にボーっと立ちすくんでいる。付近に布袋君の姿は見えない。もしかしたら逃げる際に逸れてしまったのかもしれない。彼女は一瞬遅れて僕とアーニャの姿を確認すると、少しだけ逡巡した様子を見せる。ともあれ、ここに居たらいつ流れ弾にあたるか分からない。早く逃げさせないと。
「愛緋ちゃん、ここは危ないから、早くこの建物から出ないと……」
そう言いながら近付いた瞬間、愛緋ちゃんから言葉にする事の出来ない“悪寒”の様なものが吹き上がり、思わず歩みが止まる。
「――魔力!?悠、離れて!この魔力量……人間じゃない。“魔女”よ!!」
……え?
は?え?いや、待って。アーニャの言葉が理解できない。彼女は何て言った?
魔力?魔力は『あちらの世界』の理だ。『こちらの世界』の住人が持っている筈の無いものだ。なのに、何故、愛緋ちゃんが持ってるんだ――
魔女?魔女は『あちらの世界』の存在だ。愛緋ちゃんが“それ”であるはずが……
「アーニャ、何、言って……」
「ユウさん」
今まで口を噤んでいた愛緋ちゃんが言葉を発する。ただ、僕はそれを一瞬、彼女のものと認識できなかった。いつもの呼び方、いつもの抑揚。だけど、それなのに、どうしてこんなに、怖い。
「愛、緋ちゃん……?ウソ、だろ……」
「……そう言えば、私から、名乗ってなかった、ね」
その時彼女が、フッといつも俯き気味だった顔を起こす。いつも前髪の奥に隠されていたその瞳が覗く。怯えの影すら見えないその目は、僕の目をしっかりと見据えていて、逆に僕の方がたじろいてしまう。
「私の名前は、アイヒ――アイヒホルニア・クラシペス。
“界渡りの”名を冠した、『千年級』の魔女、です」
「な、っ……!?」
「“界渡りの”ですって!?」
愛緋ちゃんの口から出た単語に、僕とアーニャが同時に驚愕の声を上げた。
彼女が“魔女”であった事も信じたくない事実だけど、その名が意味する事はもっと信じたくない事実。嘘だ、嘘だよ。だって、それは、それは……
“界渡りの魔女”
それはあらゆる異世界へと繋がる門を召喚する魔法、“異界至無窮門”を持つ魔女。
魔女として最強クラスで、千年を超える時を生きてきた、『千年級』の魔女。
――そして何より、僕達の“敵”の名だ。




