第四十七話
「はぁ……」
ため息をつくと幸せが逃げると言うけれど、この状況を前にため息をつかずにはいられない。そして僕はこの抑えきれない心情の原因を、誰の耳にも届かぬように極力小さい声で呟く。
「ツイてないなぁ」
……そう、幸せは既に逃げ切った後だった。
『泣きっ面に蜂』、『弱り目に祟り目』、『一難去ってまた一難』――不幸が続くという事を表すことわざは多い。つまりはそれだけ不幸は連鎖するものだという事なのだろう。そして強固な金属も度重なる衝撃で疲労破壊されることもある。
ええと、つまり、何が言いたいかというと……
「泣きそうだよ、ホント」
その呟きと共に、僕のお尻を撫でている誰かの手の甲を、思いっきり抓りあげた。
◆◇◆◇◆◇
今思い返せば、連鎖の始まりは昨日の夜、入浴の時間だった。
この施設にお風呂は大浴場が一つしかない。思春期の男女が住む施設でそれはどうなんだろうと思うけれど、改善しようとすれば大規模な改修が必要になる問題だ。赤貧洗うこの施設で今更どうこう言ってどうなる話でもない。……じゃあどうするかと言うと、入浴時間を二つに分け、順番に入るといった方法を取っている。
「ちょーっと!誰よ、更衣室の電気消したのー!」
「うわっ、窓無いから電気消えてると暗いなぁ……」
そんな世知辛い入浴を済ませた僕と綾が浴室から出ると、更衣室の電気が消されていている。窓の無い更衣室は浴室の扉に付いた窓から漏れた光のみで照らされ、かなり薄暗い。こんな状態では着替えもままならないと、僕は何故か消されてしまった照明を付ける為に、スイッチへと足を運ぶ。更衣室の照明のスイッチは入口のすぐ隣にある。それはつまり、更衣室の入り口である扉の前まで近づく訳であって。
「あれ、もう誰か入ってるの……か……?」
「は……え……?」
必然、扉が開かれれば、その開いた先に居る誰かと鉢合わせする羽目になる。
ガラリという引き戸の音と、それに伴う若干声変わりしきっていない若い少年の声に、僕は思わず身を竦ませる。現れたのは、同じ施設の一つ年上の少年だ。正確に言えば、彼の後ろにも数人の少年が見える。けれど、驚愕に固まった僕の視線と彼の視線は、お互いの顔に注がれていた。
「…………」
「…………」
時間が止まる感覚とはこのような感じなのだろうか、やけに長く感じる数秒間を先に打ち破ったのは彼の方からだ。僕の驚きに染まった顔に固定されていた彼の視線が少し下へ向けられ、僕の視線がそれを追う。見えるのは、身体の前に持ったハンドタオルで辛うじて見えてはいけない部分を隠した、僕の、身体な訳で――
「――――ッ!!?」
「ごごごごご、ゴメンッ!!」
ガシャンという叩きつけるようにして閉じられた引き戸が上げた悲鳴と、僕の声にならない悲鳴が重なる。思わず身体を抱きしめるようにしてしゃがみ、隠してしまう辺り、身体に刻まれた反射の凄さを実感してしまう。
「あんたら!そこから一歩でも動いたら、絶対に許さないからね!!」
僕の背後で綾が急いで身体を拭きながら扉に向かって叫んでいる。逆に、扉の向こうからは「悪気は無かったんだ」「許してくれ」「そもそも俺見えてねえ」という懇願の声。しかし、彼らの懇願は届くことは無い事は、鬼のようなオーラをまとった綾が無言で語っている。ここは綾を窘めるべきなんだろうけど、身体の奥から込み上がってくる悪寒に耐えるので精いっぱいで、そのような気持ちの余裕は無かった。
……成仏しろよ。
一夜明けて今朝になっても不幸は続く。朝の目覚ましが何故か鳴らず朝ご飯に遅刻するし、気分転換に街に出て駅に行けば、チンピラの様な男たちにナンパされるわ、迷子の子供と遭遇して、その子の親を探すのに何時間も歩き回る羽目になるわ。
そして最後に極めつけは、電車の中で僕のお尻を撫でているこの手だ。
――痴漢。
痴れる漢と書いて痴漢。
公共の場でふしだらな行為を行い、異性を不快にさせる人の事だ。痴漢と言えばまず満員電車で女性の身体に接触してくることをイメージするけれど、僕が今まさに置かれている状況がソレだ。運悪く、今日はスカートを履いてきてしまっていた為、その中に潜り込んできた手に、下着ごと触られている状態だ。ティアナちゃんの身体に刻まれたトラウマのせいで腕は鳥肌だらけ、背筋は凍りつき、胃の中がムカムカして仕様がない。彼女の願った「触れられたくない」という純潔の拒絶の祈りと正反対の状況に、身体の機能という機能全てが総動員して嫌悪の声をあげている。
「泣きそうだよ、ホント」
僕は一刻も早くこの嫌悪感から解放される為に、シンプルで、かつ効果的にこの手を払う手段を取る。
痛くなければ覚えない。躾には“痛み”が必要だ――ってね。
「ぁ゛ッ、ィデッ!!?」
人の手の甲を、いや、人の皮膚を思いっきり抓り上げた感覚というものを初めて経験したかもしれない。僕はお尻を撫でている手の甲の皮を抓り、引きちぎる気持ちで捻じりあげる。魔法を展開していたならば、本当に薄紙を千切る如くにスプラッタな状態になっていただろうけど、普通の状態なら非力な少女程度の力しかない。引きちぎるくらいの気概でなければ、そこまで痛くはないだろう。
僕の手に分厚いゴムを引っ張ったような、異様な感触が伝わる。正直ちょっと気持ち悪い。その分効果は抜群だったようで、背後から低い悲鳴があがる。かなりの強さで抓ったせいで、僕の指も赤くなっているけど、痴漢の男の手の甲はもっと赤くなっているだろう。
「どうしました?大丈夫ですか?」
僕は手の甲を押え、痛みに悶えている痴漢男に声を掛ける。なるべくにこやかに、笑顔で、優しい声色で。手を腫らした男は僕の顔を、何か恐ろしいものを見るように見ていた。
「はぁ、今日は本当に厄日だなぁ」
再び、ため息。今日だけで一体いくつのため息をついただろうか。電車を降りる時も確かにポケットに入れたはずのチケットがなくなり、もう一度電車賃を払うことになってしまい、ただでさえ少ないおこずかいは更に心もとない。
線路沿いをトボトボと歩く僕の背中には、真夏の昼下がりだというのにドンヨリとした空気が漂っている。
何か罰でも当たることでもしたかな――なんて事を考えていると、頭の中に直接、叫ぶようなアーニャの声が響いた。
『悠ッ!!今、どこ?何処にいるの!!?』
「っ――――。アーニャ、念話でその音量はつらいって」
響いているはずの無い鼓膜がキーンと耳鳴りをあげ、僕は顔をしかめながらアーニャに返事を返す。
『ごめんなさい!でも、今それどころじゃないの!早く合流しないと……!』
アーニャの切羽詰まった声で、事態がただ事じゃないことを悟る。普段落ち着いているアーニャがこれだけ焦る事態だ。強力な魔獣なりが現れたのかもしれない。
「落ち着いてアーニャ。僕は今――」
ガキン。そう響いたように聞こえたのは空耳だったのかもしれない。鳴り響く電車の音に、本当は聞こえる事が無いほど、小さな音だった筈なのだから。
「ぇ……」
一瞬、“其れ”が何なのか分からなかった。
“其れ”が脱線し、線路から弾き飛ばされ、高架橋から降る様に、落ちるように迫る電車だと気付いたのは、それが目の前に現れ、今まさに僕を轢き殺そうと接触する寸前だった。
「――ッ!!?“誰我接触不叶”ッ!!」
あまりの事態に一瞬硬直しかけたけれど、僕は何とか詠唱を行わずに魔法を発動させ、電車という質量の塊を逸らす。もしこれが失敗していたならば、たちまち僕の身体はバラバラのミンチになっていただろう。
――“詠唱破棄”
魔法を発動させるためには、その願いを口に出し“己が存在は此れである”と宣言する必要がある。その宣言を以て自分だけの“法”を展開して、その影響化をその法で塗り替える。それが魔法だ。
けれども、その宣言を省略することも出来る。それが詠唱破棄。
勿論何の代償が無い訳がない。“世界”に対して宣言を行わずに“法”を展開すれば、それは大きな反発を呼ぶ。具体的に言えば、大幅に削られた発動時間に、多大な負担。このままの状態で長い間発動し続ければ、僕程度ではものの数十秒で“異世界”へ封印されてしまうだろう。
けたたましい爆音を立てながら地面へと衝突し、電車が鉄屑の塊と化すのを呆然と眺めながら、僕は魔法を解除する。あまりの出来事に足の力が抜け、ペタンと尻餅をついてしまう。
「……は、なん、だよ。これ……」
不運だとか、ツイてないだとか、そんなレベルの話じゃない。なんなんだこれは。脱線した電車が突っ込んでくるだなんて、普通じゃ考えられないし、ありえない。アーニャの焦っていた理由はコレだ。こんな事、魔術関連の事件に決まっている。これが魔法の扱える僕達じゃなかったら、確実に即死どころか、原型すら留めていないだろう。
「ッ、誰か…… 生きてる人……」
そう思い、何とかへたり込んだ腰を上げ、逆さ向きになってしまった電車の窓を覗き込む。……覗き込んで、そしてその事を心底後悔する。
“死”だ
そこにあったのも、そこに残っていたものも。
死んでいる。命を、失っている。脈を図ったり、呼吸を確認する必要もない。むしろ、近づく必要すらない。窓越しに見えるだけで、そこに生き残りなんて誰もいない事が分かる。分かってしまう。
僕をナンパしてきたチンピラが見える。彼なりにキメたオシャレは、その四肢ごと引き千切られ、血に染まり見る影も無い。僕に痴漢をしていた男が見える。半分になってしまった顔に張り付いているのは、僕に向けたものとは比べ物にならない程の恐怖の表情。そして、あぁ……そして、僕が助けた、迷子の少女とその母親がみえる。彼女達は、他より綺麗で、母親は最後の時まで、少女を護ろうと、その腕につよく抱きしめたまま、あぁ、だけどふたりとも、その下半分が……
「ぅ……っ……ッ……」
吐き気が込み上がってくる。涙が、嗚咽が溢れる。ダメ、こんなのムリだよ、直視なんて出来ない。胃の中身を全てひっくり返しそうになるその時、僕の耳に、女の、憂いを帯びた声が届く。
「嗚呼、ツイてない、わね」
動かなくなった自動ドアを無理矢理吹き飛ばしそう呟いた女を、僕は呆然と見る。腰まである長い黒髪と、女性らしいプロポーションに、民族衣装の様な奇妙で何処か古臭い服装を纏った女性。憂いを帯びた声と表情は、まだ若そうなのに未亡人という言葉を連想させる。
「うそ、だろ?生存者……?」
あの惨状を無傷で生き残るなんて奇跡以外の何物でも無い。近付こうとして、ふと立ち止まる。奇跡?無傷で?あり得るのか、そんなことが。
そこまで考えて、ようやく僕はそいつの正体に察しが付く。こんな真似をする事が出来る何て、それこそ魔獣や魔術師、そして……
「お前、魔女か?」
「……驚いた。私以外にも此処に流れ着いたものが居るなんて」
声を掛けられて始めて僕の存在に気付いた女が驚きに目を開き、すぐに冷静さを取り戻して僕を見据える。
僕の問いに答えた。つまりは、この女が魔術なり魔法なりの関係者で、この惨事の一端だということだ。
「お前が、この惨事を引き起こしたのか!?」
「……そうね、これは確かに、私のせい。私がこの乗り物に乗ったせいね」
その言葉に、僕はギリと歯を食いしばる。何百人、この電車に乗っていたのであろうか。恐らくはその殆どは既に亡くなっているだろう。……いや、生きている人が居たら、それだけで奇跡だ。
母親が見つかった後、僕に向かって「おねーちゃん、ありがと!」と満面の笑みで笑いかけた少女の顔がよぎる。
「ッ、そーかよ。なら、僕は、お前を絶対に許さない!」
「そう、戦うの。貴女、ツイてないわね」
そう言って女は瞼を閉じて髪を払う。そして、再び開いたその目には……敵意。
戦う事は避けられない。もとより僕自身、こいつを許すつもりも、逃がすつもりもない。
あぁ、だけど、その時の僕は気付いていなかった。
――そう、竜胆悠はツイてなかった。
――運悪く、アーニャ・ガランサスとエランティスが不在である時に“魔女”と遭遇してしまった。
――運悪く、見知った顔が命を失う姿を目の当たりにして、戦うという選択肢を選んでしまった。
――運悪く、“詠唱破棄”を行い、疲弊した状態で戦闘に入ってしまった。
――運悪く、“百年級”の魔女と、一対一の状況になってしまった。
そして何よりも――
――――運悪く、“豪運”と“確率”を操る、“幸運の魔女”と戦闘になってしまった。




