第四十三話
「……悠、貴女本当に人間ですか?」
「それをアーニャが言う?」
何か恐ろしいものを見るように、恐れ戦きながらアーニャが言う。彼女の手の中にあるのは、返却された僕のテストの答案用紙だ。僕のテストの点数を見たアーニャの手がブルブルと震えだした時は、何事かと焦ったけれど、その言葉に思わずガクリと来てしまう。
「悠はティアナじゃないって分かってるのに、その顔に勉強で負けたと思うと釈然としません……」
「……ティアナちゃん、そんなに勉強苦手だったんだ」
どこかで聞こえる不満げな抗議を無視して、僕たちは追試対策会に意識を戻す。
追試対策会、という事で僕たちが集合したのは岸田君の家だ。ファミレスや図書館も一考したけど、教えるために会話をしなければならない事を考慮した結果、手ごろな自室を持つ彼の家にお邪魔することになった。男の子の部屋に――という感慨は、数か月前までは男だった僕には特になく、感想としてはまぁそれなりに小奇麗にされている普通の部屋といったものだ。セットコンポやゲーム、漫画の比率の多い本棚という男子中学生に必須のアイテムが揃っていて、何とも懐かしい気分になる。元男子である僕は懐かしさこそ感じられても、新鮮味や緊張はしていない。アーニャも全く興味が無いのか平然としている。この中で緊張しているのは女の子に囲まれて目のやり場に困っている様子の岸田君と、久しぶりの男の子の私室と言う事でソワソワしている綾だけだ。二人の反応が何とも青臭くて初々しくて、僕はつい生優しい視線を向けてしまう。
「えーっと、とりあえず追試の教科確認しておこうか」
僕の言葉で三者三様に、気まずそうにしながらテストを取り出す。
まずこの部屋の主である岸田君、追試数は1つ。教科は数学。追試と言ってもテスト自体は惜しいところまではいっている。いくらか復習をすれば、余裕をもって合格点をクリアできるだろう。そもそも僕が教えなくても大丈夫そうだ。
次に発端の綾、追試数2つ。教科は理科と数学。理科はまぁうん、そこそこだけど、数学が酷い。公式を全く覚えていなさそうな回答と点数だ。これは少し遡って復習しないとダメそうだ。
最後にアーニャ、追試数……5つ。なんというか、酷い。とても、酷い。そもそも何が分かっていて、何が分かっていないかすら分からない。小学生からやり直さないと無理じゃないのこれ。
「……アーニャ」
「……なんですか」(仕方無いでしょう!?私この世界の教育なんて殆ど受けてなかったんですよ?)
器用にも副音声のように念話で言い訳をするアーニャ。そう言えばアーニャは異世界人だ。彼女達が受けていた教育は、ティアナちゃんの記憶だと文字や四則計算程度で、現代日本の教育にはとても及ばない。そんなアーニャがいきなり中学二年といえ、テストを受けたとしても問題を解くのは不可能だろう。でも、だからと言って、どうしようこれ?
(そもそも、なんで入学したのさ……)
(“界渡りの魔女”が居る可能性を考慮して、ですよ。魔女に至るのは10代から20代が多いので、可能性は高いんです。この学校内位の範囲で魔法を使えば特定は可能ですし)
(なるほど…… 遊んでた訳じゃないのか)
(……悠?私がいつも遊んでいるとでも思っているの?)
(あ、ごめん、聞こえてた?)
念話は気を付けていないと、思ったことがそのまま相手に伝わってしまうことがある。恐る恐るアーニャの方を見ると、いつの前に距離を詰めたのか、昏い笑みを浮かべ、手を今まさに獲物を捕まえる猫のように広げたアーニャが目の前に立っていた。
「ゆ~~う~~?」
「あ、痛い!ごふぇん、ごふぇんってふぁ」
突然怒り、僕の頬を引っ張り出したアーニャを、二人がびっくりして見ている。念話が聞こえていない二人にとってはアーニャの行動はさぞ奇妙に映るだろう。その事に気付いたのか、彼女は曖昧に笑って無理やり誤魔化す。誤魔化せてないけどね、それ。
「全く。エランティスに頼んで、もう一度改竄魔術使ってもらおうかしら……」
ボソッと小さく呟くアーニャ。うーん、ズルは良くないなぁ。
その後は無事に勉強会は進んでいった。岸田君はたまに質問してくる程度で、心配は要らなさそうだ。綾は理科の対策は殆ど済んだけど、数学はもう少し時間がかかりそう。アーニャは……皆まで言うまい。彼女の名誉のために言うならば、アーニャの理解力と記憶力は凄い。この追試に間に合わせる事は絶望的とは言え、ものすごい勢いで知識を吸収している。夏休みの間勉強をしていたら、来期からは普通にテストをこなすことが出来そうな勢いだ。僕はふと、ティアナちゃんがアーニャは勉強が得意って言っていたのを思い出していた。
そうしてしばらく真面目に勉強を続けていると、窓から差し込む日差しが大分赤みがかっている事に気付く。壁に掛けられた時計を見ると、門限まで幾ばくかといったところだ。
「んと、もうこんな時間か。綾、後は帰ってからやろうか」
「やっと終わったと思ったら、戻ってもやるの!?」
「いや、夏休み要らないならいいんだけど」
「ごめんなさいっ!教えてください!」
綾は放置するとすぐ後回しにしようとする癖がある。多分、いや、確実に夏休みの宿題は最後に必死になってやるタイプだろう。
そのあとは集中が切れたせいかあまり捗らなかったけれど、テスト範囲を一通りは網羅できただろう。数日後の追試が楽しみだ。
◆◇◆◇◆◇
そして数日後、追試を終えた彼らの表情を見て、図らずともその結果を知る。
岸田君、彼は余裕を持った表情に少しの安堵を含んだ顔をしている。もともと心配はしていなかったけど、余裕で合格といったところだろうか。
次に綾、心底安心しきったように脱力し、精も根も尽き果てたといった顔をしている。まぁつまりはギリギリセーフだったということだ。
最後にアーニャ。完全に目が死んでいる、結果を聞くまでも無く駄目だったのだろう。でも、ズルしなかっただけ、偉いと思うよ。
「うぅ、私は何をしているんでしょうか」
「アーニャ、元気出して……」
「そうだよ、アーニャさん!それに、ちょっとおバカな方がモテるって!」
「あぁうん、綾少し黙っててね。アーニャ余計に昏くなってるから」
その言葉にとどめを刺されたのか更に落ち込んだアーニャを見て、綾は「しまった」と口を押える。
「おバカ…… そうですね、私はおバカ……ですものね」
まためんどくさいモードに……
「それじゃあ。ありがとな、竜胆さん。おかげで追試余裕だったよ」
「どういたしまして――っても、岸田君にはあんまり教えれてないし、実力だよ」
お世辞ではなく、本音でそう言うと少し照れくさそうに手を振った岸田君が去っていく。
「うぅ、悠~」
「はいはい、課題手伝ってあげるから、そんなに落ち込まないの」
ゾンビ化したアーニャを宥めて、何とか帰路につかせる。
そして、僕と綾の二人だけの帰り道だ。大人になって、誰かと一緒に家に帰る事は格段に減った。仕事が終わって、一人で帰路について、一人の家に帰って、寝る。慣れた筈の生活だったけど、今では寂しくて、とても耐えられなさそうだ。それ程までに僕はこの生活が暖かく、愛おしく感じていた。
夕日に照らされる帰り道、追試を乗り越えて無事平穏な夏休みを手に入れた綾は、スキップして鼻歌を歌いながら歩いている。その浮かれようは余程夏休みが心配だったのだろう、これ以上無い位のハイテンションだ。
「なっつやっすみぃ~♪夏休みだよぉ~♪」
「何その歌……」
苦笑しながら綾のオリジナルソング(夏休みver)に苦言を呈していると、綾が急に目の前で立ち止まった。訝しげに彼女を見ていると、何かを言おうとしている事に気づく。それも、言う事にかなりの勇気と決意が必要なことを。同じく足を止めた僕と綾の間に、静かな静寂が流れる。何度目かのセミの鳴き声が止んだ後、綾が決意を固めた様子で振り返り、言葉を紡ぐ。
「……ねぇ、悠ちゃん」
「……何?」
「この前、ずっと前から友達だったみたいって言ったでしょ?あれ、結構本気だから」
「え、な、なに、急に」
「大切な友達だから、言っておきたいことがあるんだよ」
綾の言葉に、思わず赤面して狼狽えかけたけど、綾の真剣な表情を見て、再度息を飲む。小さく深呼吸をした綾は、彼女の身上を、“何故、今の施設に居るのか”を語り始める。
「うちね…… ううん、うち達はやっぱり、どうしても他の子達とは違うんだよ。ふとした時、例えば「親にこんなこと言われた」とか「誕生日あれ買ってもらった」とか、そんな話を聞いたとき、どうしたって、やっぱり、うちはその子に嫉妬しちゃうんだ。『親が居るだけで幸せなのに』って」
「…………」
突然の綾の独白に、僕は一言も発せることが出来ずにいる。
「うちの両親ね、小さな食堂やってたんだけどね、やっぱり不景気でね、赤字続きで、そんな時ね、何とかチャイルズに入って看板を借りようって話が来てね、その話を受けたみたいなんだけどっ、あの日突然、スーツのっ、弁護士さんが来てっ、わけわかんなくて……そしたらっ、お父さんとお母さんが……っ……」
「……いいよ、綾、無理に話さなくて」
たどたどしく、一言ずつ話す綾の言葉に悲痛が積み重なり、それが崩れそうになる寸前で僕は綾を抱きしめ、その言葉を止める。その先にあるであろう結末を、綾の口から話させることに耐えられなくて。
「……ぅ、ごめんっ、っく」
「謝ること無いよ、綾は何も悪くないんだから。でも、どうして、そんな辛いことを無理に……」
綾にとってその時の事は思い出したくもない、だけど忘れる事もできない記憶だろう。言葉にすればその辛さがぶり返すだけだ。それなのに彼女は僕にその事を語った理由が思い当たらない。
「悠ちゃん。うちは悠ちゃんがどうしてこの施設に来たのかは分かんないし、聞かない。だけど、だけどね、帰る場所があるなら、それはきっと何にも代えられないことだから。うち達と悠ちゃんは、何となくだけど、やっぱり違う、違うんだよ」
「……綾」
綾は気付いていたんだ、僕の記憶喪失が嘘っぱちだって事に。帰る場所の亡くなった綾の言葉に、父さんと母さん、そして遥の顔が頭をよぎる。帰る場所、だった処。もう帰る事の無いところ。アーニャ達を助けるって誓った、後悔しないって決めた僕は彼等の元にもう一度現れるつもりはない。子を喪う痛みなんて、たった一度でも十分すぎるものだから。
「……うちが言いたいのはそれだけ。ごめんね、説教臭くなって。でも、悠ちゃんが施設を出ても出なくても、うちは悠ちゃんの友達だから」
そう言ってほほ笑んだ綾の姿が眩しすぎて、僕はそれを直視することが出来なかった。




