第四十一話
――暑い。いや、熱い。
僕の今の姿は、上はタンクトップ、下はショーツのみというあられもない姿だ。これ以上ない位涼しい恰好ではあるのだけど、大量の汗でシャツは肌に張り付き、息苦しさで呼吸は荒れ、背中に触れる布団の暖かさでさえ億劫に感じる。
そしてそれは隣で寄り添うように寝ているアーニャも同じらしい。顔は上気し頬を紅く染め、その瞳は艶めかしく潤む。荒い息をする彼女も、僕と同様随分と苦しそうだ。
「……ん、っ、はぁ、っ」
「ぁん、っ……ん」
僕とアーニャの悩ましい声が重なる。身体の奥から、ジクジクとした熱が混み上がり、それが喘ぎ声となって漏れる。「はあっ……」という、アーニャが熱気と湿度の篭った吐息を吐き出す音が耳元で聞こえるのは、何と言うか非常に理性がやばい。
と言いながらも、僕も似たような状態だ。死ぬほど恥ずかしいけど、込み上がってくる声を抑えることが出来ない。
「エラン、ティス」
「……なんだ」
僕達の様子を静観していたエランティスの名前を呼ぶと、彼は非常に不愛想に、渋々と言った様子で返事をする。
「……のど、乾いたぁ」
「……」
エランティスからの返事は無い。
「水……取ってぇ」
「私のも、おねがい……」
「……」
アーニャとの二人の懇願に対しても、エランティスからの返事は無い。しかし、行動は起こしてくれたようだ。ただ、怒っているのか、それとも呆れているのか、無言でコップに水を入れるエランティス。小型犬にしか見えないエランティスが器用に前足で蛇口を捻り、コップに水を注ぐ姿は異様な光景だけど、僕はそれを気にする余裕は存在しなかった。
「あ゛-、……頭、痛い、きもちわるい」
「久々の魔力欠乏症は、辛い、ですね……ぅ」
――魔力欠乏症
使い切る事など不可能な程膨大な魔力を誇る魔女。だけど、だからと言って無限に魔力を扱える訳ではない。その最たる原因の一つが、魔力欠乏症だ。魔力を使い過ぎた時の次の日、まるで浴びる程酒を飲んだ翌日の様な、強烈な二日酔いに似た症状が現れる。
ガンガンと頭を叩くような頭痛、トイレに籠りたくなる程の吐き気、声すら掠れる喉の渇き、そして胸のむかつきに体の震え。典型的な、それでいて重度の二日酔いだ。幸い本当にお酒を飲んだ訳ではないので、お酒臭くなり飲酒を疑われたりすることは無いのだけど。
成人男性なら一度はなった事がある人が多いであろうこの苦痛を、まさか女の子の身体になって体験するとは思わなかったよ。
「……水だ」
コトリというコップを置く音すら頭に響く。犬であるエランティスは手でコップを持つことが出来ない為、必然口でコップを咥えて持ち運ぶ姿はさすがに気になったけど、文句を言う元気も無い。エランティスが注いでくれた水を一気に飲み干すと、喉の渇きが幾分と楽になり身体の奥底から湧き上がる熱が少し収まる。人間は水が無ければ生きていけない事を身をもって実感する。とは言え頭痛や吐き気が収まった訳ではないのでまだ本調子とは……
「たっだいまぁ~!」
「「ああぁぁぁぁ………」」
バタン!という勢いよく扉を開いた音と共に、元気な綾の挨拶が響く。いや、部屋にでは無くて頭に。思わず僕とアーニャは、最早悲鳴と呼ぶより断末魔と形容した方が適していそうな声をあげる。
「あ、綾っ、こえっ、大きい……」
「頭に……ひびいて……うぅ……」
「あぁっ、ごめんね。二人とも風邪なのに騒いじゃって。ほら、冷却シートとゼリー買ってきたよ」
そう言いながら綾は冷却シートを開封し、僕達のおでこに貼る。ひんやりとしたシートが顔のほてりを取り除いてくれる。あぁ、これ気持ちいいかも。でも、ごめんね、綾。風邪じゃないから、多分そんなに意味はないんだ。風邪ということになっているから口には出さずに、僕は心の中で謝罪する。
「それにしても、夏なのに二人も同時に風邪なんて、変な風邪でも流行ってるのかな?」
「あー…… まぁ、感染は、しないと思うよ、多分」
「そうだねー。うちバカだし、バカは風邪を……っておい!」
素晴らしいノリツッコミ。でも夏風邪は馬鹿がひくんじゃなかったっけ?
◆◇◆◇◆◇
二日酔い――もとい魔力欠乏症から解放された僕達は、ひと気のない公園に居た。尤も、ひと気が無いのはエランティスの結界の魔術に拠るものだけど。そこで僕は、ある実験をしている。
……イメージをするのは槍先。捻じり、絞り、鋭く尖らせた漆黒の槍。込める願いは、“全方位への拒絶”。貫いた万象弾き飛ばす斥力の徹甲弾。
イメージが固まると黒い霞のマントの切れ端が、まるで朽ち落ちたかのように離れる。その切れ端は地面に触れることなく、フワリと浮き上がり僕の目の前を漂う。そして一瞬、停止した切れ端がまるで雑巾絞りの様に捻じれる。キュリキュリと言う耳障りな異音を立てながら出来たのは、イメージ通りの漆黒の槍先。ティアナちゃんの様に銃弾程小さく、そして大量に変化させる事は出来ないけれど、10センチから1メートル位までの大きさなら、何とか僕にも出来るようだ。尤も大きさで威力が変わらない分、より小さく、大量に変化させた方が総合的な威力と制圧範囲、利便性は上だ。
「法衣の形態変化の応用、ですか。器用なものですね」
「ほう……」
久しぶりの修行。その場で、僕の“新技”の披露目だ。前に高速移動術を考え出した時と比べたら二人の反応はすこぶる良い。エランティスに至っては珍しくも感心したような声をあげている。あの時みたいに、「馬鹿なの?自殺志願者なの?」って顔をされたらどうしようと思っていたところだ。
「ティアナの様に概念である斥力自体を圧縮、操作させるのは相応の技量とセンスが必要だ。一朝一夕どころか、何十、何百年の修練を要するだろう。だが、魔法の一部である法衣を操るのは比較的容易と聞く。魔法を込める触媒としても申し分無い。考えたな、竜胆悠」
「まぁ、別に僕が考えた訳じゃないんだけど。アーニャはこう云う事しないの?」
「練習すれば出来なくも無いでしょうが…… 私の場合、魔法の法則が自分自身に作用するので、飛ばしても意味が無いですね」
「成程…… 」
“斥力”しか操る事の出来ない僕と違い、アーニャの魔法は様々な効果を生み出すことが出来る。わざわざこんな小細工をするまでも無い。不公平と言えば不公平だけど、こればかりは魔女になる際の“願い”に依るものなので、自分自身ではどうしようもない事だ。例えば、「ご飯を沢山食べたい」と言う願いを以て魔女に至った場合、「食べ物を生み出す魔法」や「何でも食べることが出来る魔法」の様な、戦闘に全く意味のない魔法を持った魔女も居るだろう。
「よっ、っと」
まるで紙飛行機を飛ばすように手首を振ると、黒い槍先がゆらりと飛び立つ。その槍に全力の斥力を一点集中で叩きつけると、まさに徹甲弾の如く高速で“発射”される。標的にしていた岩を貫き山肌に突き刺さったソレは、一瞬遅れて爆発するように斥力を開放し、弾ける。花火の様な音を立てた後、そこには抉れた地面だけが残っていた。
「問題点は斥力の解放のタイミング、貫通力の調整か。連射可能であれば戦術の幅が広がるのだがな」
エランティスがつらつらと問題点を上げる。相変わらず手厳しいけど、それは自分でも気にはなっていたところだ。戦闘中に練習と調整を積むしかないだろう。
「あらあら、結界があると思って覗いてみたら…… 貴方だったのエランティス?」
「ッ……!!?」
突如背後から聞こえてきた、アーニャのものでもエランティスのものでも無い声に、ギョッとして振り向く。修行の時はエランティスが結界を張ってくれている。『人払い』と、『物質の修復』の為だ。この結界がある以上、普通の人間はこの中に立ち入る事は出来ない。だからこそ、今ここに現れた女性は“普通の人間”じゃ、無い。
現れた女性は、何というか、綺麗な人だった。年齢は二十代半ばくらいの、女性らしい魅力に溢れた、妙齢の女性。パーマのかかったセミロングの金髪をフワリと靡かせ、これでもかと主張する豊満なバスト、太ももを曝け出すようなタイトスカートのスリットが非常に目に毒だ。
「……何の用だ、“前知の”」
「うふふ、用が無ければ会ってはいけないという事もないでしょう?」
「大ありです。帰ってください、それ以上近づかないで」
「あら、そんな顔で睨んじゃって、相変わらず可愛らしいわね“御使いの”……いえ、アーニャちゃん」
「……」
エランティスとアーニャからの辛辣な対応など全く気にしていないのか、マイペースに話を進める女性。その様子に、二人はげんなりとした表情になる。エランティスに至ってはあからさまに舌打ちをしている。
――“前知の魔女”
“前以て知る”の名の通り、予知の魔法を使う魔女、らしい。一時期アーニャが落ち込んでた時、僕達の代わりに“門”から現れる魔獣を狩ってくれていた人と言う話は聞いていたけれど、実際に会うのは初めてだった。
「まぁ、用はあるのよ。尤も――」
僕を後ろに隠すアーニャの肩越しに、僕と前知の魔女との視線が合う。その目に映るのは好奇心。まるで蛇の様な全身を這いずりまわる不快な視線に、思わず体がブルリと震える。
「用自体はもう終わったのだけれど。うふふ、貴女も、相変わらず可愛いわね、ティアナちゃん。あぁ、ごめんなさい、今は竜胆悠と名乗っているのでしたっけ」
「貴様ッ!視たな!?」
「別に減るものでも無いし、構わないでしょう?」
視る…… 話に聞く前知の魔女の魔法は、過去や未来を知るといったものだ。どうやら僕の過去なり未来なりを覗き見られたらしい。流石に自分の事を覗き見られるのは気分が悪い。“誰我接触不叶”を発動させておけばよかった。この魔法、精神攻撃の類も弾くことが出来るから。不満げに睨む僕を見据えながら、カツカツと言うヒールの音を響かせながら此方に近づく前知の魔女。その歩きはまるでモデルの様で、それでいて“わざとらしい”歩み。
「初めまして。私は“前知の魔女”リモニウム・スターティス。以後お見知りおきを、可愛い御嬢さん?」
「……初めまして。“拒絶の魔女”竜胆 悠です」
僕の目の前に、立った前知の――いや、リモニウムさんが、友好の証だと手を差し出し握手を求める。多少の嫌悪感はあるも僕も手を伸ばし、その手を握ろうとした瞬間――
スッと僕の握手を返そうとする手を躱したリモニウムさんの手が、僕のシャツの中に潜り込み、ブラを押し上げ、その中を弄る。
――むにゅん。
「……えっ?」
心臓のある部分、成長途中で僅かしかないと言え確かに存在するその膨らみを揉みしだかれる感覚に、そしてあまりにも唐突で脈絡もない行動に、僕の頭は数秒真っ白になり、動きも固まる。
えっ、あれ、僕、何で、胸、揉まれて……
「ッ!!?ッッツ!!!」
「神ッ槍ォォォ!!!」
やっと悲鳴にもならない悲鳴を上げた僕を引き寄せ、そして激情に任せて、詠唱破棄で魔法を展開したアーニャが放った光る槍を、平然と、其れが来る事を知っていたようにヒラリと身をかわすリモニウムさん。
「悠に何してくれてるんですか祓いますよ清めますよ殺しますよこの腐れ色情魔」
早口で一息も付けずに罵倒と脅迫を言い切ったアーニャ。普段の様子と比べたらまるで別人のようだ。鬼気迫るアーニャの姿に気を取られていたけど、腕で胸を隠し、ペタンと女の子座りをしてしまっている自分の今の姿にハッと気づいて、慌てて佇まいを直す。とっさに胸を隠してしまったことに、自分の無意識まで女性化していった様でかなり、ショックだ。
「あぁ~、やっぱり、いいわぁ、この位の子って。成長途中のあどけなさ、少女と女の中間という危うさ。最……高……」
うわぁ……。
あぁ、これは確かに腐れ色情魔だ。幼児性愛者で同性愛者な事を悦とした表情で語るリモニウムさんに、思わずドン引きしてしまう。
「崩れ墜ちなさいっ変態ッ――!!!」
不埒物を成敗しようと、アーニャが出鱈目に“福音”を連発する。隙間のない破壊の音の波を、躱し、障壁で防ぎながら、前知の魔女が語る。
「三人とも、また逢いましょうねぇ~」
「「「二度と来るなッ!!」」」
僕たちの声と台詞は奇しくも重なりあった。




