第四十話
戦いを終えた余韻の中、僕は深く、ため息の様な深呼吸をする。吐き出す息と共に、黒い霞のマントは霧散するように消え去り、心の中からあふれ出る感情と力が収まる。それと同時に世界から与えられていた圧迫感も消え去る。危うく異世界として封印されるところだった。
それにしてもティアナちゃんの魔法は凄い。“触れられたくない”と言う願いから生まれた為、自身から離れる方向への力しか操る事の出来ないこの魔法だけど、“魔法の一部”である霞のマントに斥力を込めて飛ばし、遠距離攻撃を可能にしたんだ。そんな事思いも付かなかった。蠅山の魔獣が立っていた場所を見ると、まるで大量の隕石に降られたかのように小さなクレーターが重なり合い、地盤沈下が起きたかのような巨大な穴が開いていた。
……これで生きているようなら本当に打つ手なしだ。僕は祈るような気持ちでしばらく穴の底の暗がりを見つめていた。時間にして何分程経ったのだろうか、長いような、短いような時間を経てようやく蠅山の魔獣を倒す事が出来たのだと実感することが出来た。
「勝ったん、だよな。これで誰も死なずに済むんだよな」
そう呟いてもう一度、小さく震えながら深呼吸をする。
再び魂と身体を結ぶ楔を得たことにより、僕の身体機能は完全に元通りになっていた。
――つい先ほどまで黄ばんだ色彩を放つ奇妙な視界は、今ではその鮮やかさの全てを取り戻している。
目が見える。
「あぁ」
――つい先ほどまで遠かった耳は戦いの残滓の音を繊細に拾い、鼻は砂埃と焦げ臭い香りを拾う。
音が聞こえる、臭いをかぐことが出来る。
「僕」
――いつの間にか切ったのであろう、口の中には僅かな鉄の味が広がっていた。
味が、わかる。
……あぁ、僕は本当に。
「生きているんだな」
そう呟いた瞬間、僕は頬を伝う涙に気付く。気付いてしまえば、後は決壊するように涙が溢れ、嗚咽が零れる。
「っく、ぅう、うぅぅぅ……」
怖かった、恐ろしかった。そして何より諦めていた。蠅山の魔獣と対峙した時よりも、少しずつ消えていく感覚が、少しずつ鈍っていく心が、少しずつ壊れていく自分が、何よりも僕に恐怖を与え続けていた。
救ってくれたのはアーニャだ。彼女が僕を護ると言ってくれた時、どれだけ僕が救われたか。
護ってくれたのはエランティスだ。犯されそうになった時、騎士の様に僕を護ってくれた事が、どれほど嬉しかったか。
願いを叶えてくれたのはティアナちゃんだ。僕に再び力を、命を与えてくれて、その上また命を救われた。
報いきれない程の恩を受けた。だからこそ僕はもう迷わない。もう後悔なんてしない。アーニャを救う。エランティスを死なせない。ティアナちゃんの願いを叶える。それこそが僕が彼女たちに出来る唯一無二の報恩と信じる。
「ぐすっ、ぐす…… みんな、ありがと」
――今度は僕が、みんなを護る。
涙で赤く腫れた目を擦りながら、僕は何とも情けない姿ながらも、誓いを立てた。
ひとしきり泣いたら少しだけ心がスッキリとした。男だったころなら情けなくて泣くなんて出来なかった。涙もろいティアナちゃんの身体で知ったことだけど、泣くと云う事は精神を安定させるのにとても有用なのかもしれない。そういえば昔、様々なリラックス効果、ストレス解消効果があるって聞いたことがあるような気がする。
精神的にすこし余裕が出来たお蔭で、あたりを見回す。つい今朝まで居た児童養護施設がボロボロになっている様が目に入る。そして大切な事を今まで失念していたことに気付く。
「……ッ!!そうだ!綾ッ!!院長、みんな!」
今日は休日だ。何人かは外出しているとはいえ、半分は施設の中に居ただろう。綾も今日は部屋でのんびりすると言っていた筈だ。だとすると、この一部が倒壊した建物の中に居るって事だ。
「くそっ、綾ッ!!皆、お願い、無事で居て……」
焦操感に苛まれ、胃がグルグルと廻り、胸の奥をジリジリと焼け焦がされるような感覚を受けながらも、数十分間僕は施設の中を、縋るような気持ちでみんなを探しながら走り回った。
◆◇◆◇◆◇
「竜胆悠」
「……エランティス」
走り回り、力尽き、ペタンと座り込んでいた僕にかけられる声。
そこに居たのは既にいつもの子犬のサイズに戻っていたエランティスだった。アーニャの姿は無い。気を失っていたようだし、どこかで安静にしているのかもしれない。
「汝には感謝している。よもや『名付き』の魔獣と出会って一人も欠けずに――」
「エランティスっ!!」
エランティスが感謝の言葉を述べようとしているけど、それを遮るように叫ぶ。そもそも助かったのはティアナちゃんとアーニャのおかげであり、僕自身の影響なんて微々たるものだ。それよりも、それよりも大切な事があるんだ!
「みんなが、みんながっ、この施設の皆が居ないんだよ!人ひとり、誰もッ!誰一人!!」
「…………」
「大丈夫、だよな?みんな、逃げられたんだよな!?」
そうだと言ってくれ、エランティス!皆無事逃げられたんだって、だからここに居ないんだって!蠅山の魔獣の軍勢が、視界を埋め尽くす山の様に蠢く無数の蠅のその眼が、牙が、心をよぎって仕方ないんだ。もし、あの数の化け物に集られて喰い付かれれば、それこそ骨すら残らず食い尽くされるかもしれない。
「……蠅山の魔獣は結界を張っていた。アレを超えられるただの人間は居るまい」
「そん、な……」
予感というものは得てして悪い方ばかり当たってしまう。エランティスが悔しそうに僕に告げたのは、この施設の皆に逃げ場なんて無かったという事。
「そしてアレに喰われれば、そこに在った痕跡すら残らぬ」
「ぁ……っ……」
そして、逃げ場の無い筈の彼らが、何故この場に居ないかという事。
「…………残念だが、居らぬというならば最早生きては居るまい」
続くエランティスの言葉に、僕はうめき声をあげる事すら出来なかった。込み上がる吐き気を口を押え付けて抑える事しか出来ない。何故、蠅山の魔獣が現れた場所が此処なんだ。どうして彼らが殺されなきゃいけなかったんだ。どうして、どうして。そんな無駄で答えの無い疑問ばかりが沸いてくる。
「……結界を解くぞ、竜胆悠」
エランティスの言葉がやけに遠く感じる。その言葉に反応を返す余裕は到底、無い。彼もそれが分かっているのか、僕の返事を待つことなく、結界の解除をし始めた。結界の解除に伴って壊れた建物や、抉れた地面が元の様に修復されていく。まるでビデオを逆再生しているような異様な光景だけど、既に見慣れたものだ。この魔術で“物”は直る。だけど、“人”は治らない。命があるものは生き返らない。元の様に戻った建物の中には、住むべき人が居ない。
結界が完全に解かれた先に残ったのは、僕と、エランティスと、無人の施設だけだった。……筈だった。
「……えっ、何ここ!真っ暗じゃん!?あいたっ!?」
「……え?」
聞きなれた活発そうな声、遅れてゴンッというどこかに何かをぶつけた音が聞こえる。
何も無い空間に硝子が割れるようにヒビが入り、パリンと砕け散る。まるで箱に仕舞われる様に結界に護られていた綾が、その姿を現す。
「痛ったぁ~、打ったぁ。……あれ、ここ食堂?おっかしいなぁ。さっきまで部屋に居た筈なんだけどなぁ~」
「……うそ、綾?」
夢、じゃないよな?僕の願望が見せた幻じゃないよな?不思議そうにあたりを見回す綾の姿は、紛れもない普段の彼女の姿だ。
「ん?悠ちゃんどしたの~?そんなとこ座り込んじゃって」
「……ッ、っ、綾ぁっ!!」
「うわっ、え、ちょ、うち何かした?あれ、何事?」
「無事で…… よかった……」
急に泣き出して抱きついた僕を、綾は面食らって戸惑っている。結界の中で意識の無かった彼女には、何が起こったのか全く理解出来ていないのは分かっているけど、今だけはこうさせてほしい。抱きしめたまま涙を流す僕の頭を、綾は「よしよし」と言いながら撫でてくれていた。少し、いや、かなり恥ずかしいけど、なぜかそれが今はとても暖かくて、嬉しかったんだ。
◆◇◆◇◆◇
「アーニャの仕業であろうな。万が一でも巻き込まれぬよう、姿隠しの結界で隠していたのであろう」
施設のみんなが無事だった事を確認した後、二人っきりになるとエランティスは言い訳をするように解説を始めた。急に泣き出すという赤っ恥をかいた僕は、羞恥に対する恨みと批難を込めてエランティスを睨む。
「……エランティスのうそつき」
「異な事を。我は汝の言葉を信じ、その現状を推測したのだ。汝の言葉に過誤があったのならば、その推測もまた過ちであろう」
まるで悪いのは僕だとでも言わんばかりの口ぶりだ。姿隠しとやらで視覚的に識別出来なければ僕が見つけ出す事なんて出来ないし、そもそもそんな魔術があるなんて知るはずも無い。
「……うるさい。いじわる」
「……汝が探査魔術の一つでも使えれば疾うに分かった事だ」
「僕が魔術使えないの知ってるくせに」
ジト目で睨みつけながら反論していると、ついに痺れを切らしたのか、叫びながら僕の腕の中からもがき、暴れて逃げ出そうとするエランティス
「ええい、鬱陶しいぞ、竜胆悠!童の様に拗ねるな、我を抱き抱えるな!!」
「うわっ、急に暴れんなって。いいじゃんか、これ落ち着くし」
「我は人形ではないぞ。汝、要らぬ処までティアナに似ているな……」
「…………」
どうだろうね。ティアナちゃんも拗ねたり落ち込んだりした時は、エランティスを抱き抱えていた。今の僕ではこれがティアナちゃんの感情なのか、僕の感情なのか判断する事は出来ない。僕は言葉の返事の代わりにギュッとエランティスを抱き締めると、彼はどう思ったのか無言で抵抗するのを止めた。
しばらく奇妙な、若干気不味い静寂が流れる。
「なぁ、それよりアーニャは大丈夫だよな?」
「だから撫でるなとッ……!
……無事だよ。欠損した手足も“天衣無縫乃理”が解ける前に再生出来た」
「そっか」
エランティスの頭を撫でながら、無事逃げ切れたであろうアーニャの様子を尋ねると、彼は怒りながらもアーニャの無事を告げる。その言葉を聞いて僕がホッと息を吐くと、エランティスは急に殊勝な態度で語り出す。
「先程言いそびれたが、汝には感謝している。『名付き』の、しかも“蠅山の魔獣”と遭遇して、本当に一人も欠けずに滅する事が出来るとは思わなかった。
……アーニャの結界の存在を知っていたのに、頭の回らなかったのは我の責任だ。無用な気負いをさせて済まぬ」
「エランティスがあやまっ……?!大丈夫か、エランティス?気付かない内に攻撃でも受けたのか?」
「……おい、竜胆悠。手を出せ」
あの傍若無人エランティスが謝るなんて信じられない。偽物か、酷い精神攻撃を受けたのかもしれない!「本物のエランティスは何処に……」と言い掛けた瞬間、彼を抱き締めていた僕の右腕に、エランティスの綺麗な歯型の跡が付いた。
まぁ、一件落着、かな?痛む右腕に、フーフーと息を吹き掛けながら、僕はそんな事を思っていた。
遅くなりました。これにて第四章完結です。




