第三十六話
……静か過ぎる。
瓦礫と化した正門や、一部が倒壊した建物の目の前にしてはあまりにも静か過ぎる。先に来ている筈であるアーニャの姿が見えず、現れたであろう魔獣の姿も見えない。まるでここが元々廃墟であったかのように静まり返り、不気味な静寂を放っていた。
けど、違うんだ、そんな筈は無いんだ。だって、今朝まで普通に皆でご飯食べて、皆で話してて、皆で……
「え、エランティス、皆は、アーニャは無事なのか?」
「……分からぬ。妨害されて居るのか、先程からアーニャ・ガランサスと念話も繋がらぬ」
エランティスに尋ねてみても、忌々しそうに顔をしかめるだけで、どうやら彼も状況を把握しきれては居ないようだ。
「結界に妨害か…… 間違いなく上位の魔獣ではあるな」
エランティスの呟きが耳に入り、背筋に冷たい物が走る。“上位の魔獣”。僕が魔法を使えていた時でも勝てないと言われていた相手だ。万が一現れたら全力で撤退して、アーニャに任せるよう厳命されていた化物。
エランティスが上位の魔獣と同等と称した、以前戦った切裂き魔の顔が思い浮かぶ。本当に強かった。少し強くなった今なら分かる。正直言って手も足も出ていなかった。最後の瞬間、偶然発動した魔法で切裂き魔が体勢を崩さなければ、僕の首と胴体はサヨナラしていただろう。
始めて遭遇する上位の魔獣に不安を募らせていると、エランティスから意を決した声があがる。
「竜胆悠。一つ言っておく。今回は、死を覚悟しろ」
「エラン、ティス……?」
今、何て言った?死を覚悟しろ?死ぬ、のか?誰が?僕が?
混乱する僕に構わず、エランティスは説明を続ける。
「上位の魔獣が相手ならば、個体にもよるが、魔法の壊れかけているアーニャ・ガランサスでは対処しきれぬ可能性がある。其れは契約者を失っている我も同様だ。我も、アーニャ・ガランサスも、そして勿論、汝も命を落とす確率の高い戦いだ。場合によっては誰かを切り捨てる事になるやも知れぬ」
アーニャが、エランティスが負ける――
あり得無い事では無いと知っていた事。だけど、目を逸らしていた事。
訓練の時、僕では歯も立たない程強いアーニャが、負ける。二人が、殺される……
「故に、覚悟しろ。死ぬ覚悟を。我等を切り捨てる覚悟を」
僕は……、僕は……
「……エランティス」
「……何だ?」
「行こう」
「……あぁ」
そんな覚悟、出来る訳ないじゃないか。
養護施設に入っても無音の静寂は続く。魔獣が生きているかも分からない現状、騒いだり、アーニャを呼んだりして此方の位置を知らせるのは得策とは言えぬというエランティスの言葉により、僕達は忍び足で物陰に隠れ、息を潜めながら施設の中を捜索していた。
「ひっ……!?」
一番大きな部屋――食堂に入った瞬間、すり足で運んでいた足に、不意打ちの様に何かが当たり、思わず小さく悲鳴をあげる。周囲を気にするあまり、足元が疎かになっていた。足に当たった何かを確認する為に視線を落し――僕の身体は金縛りにあったかのように緊張し、硬直した。
「なん、で……」
なんで こんなものが ここに あるのだろう。
それは人間の腕。肩から綺麗に引き千切られた人間の右手だ。
今でも夢に見る。切り裂き魔の腕を引き千切った感覚、悔恨に塗れたあの表情を。そしてあの記憶よりは幾分小さく、そして造形自体は同一の右手が僕の目の前にある。
「ひいっ!?あ、うあ……」
予想だにしていなかった物体に思わず悲鳴をあげ、よろめいた拍子にバランスを崩し、しりもちをつく。瓦礫が飛び散っている中で倒れたため、お尻が悲鳴をあげそうな程に痛みを訴えているが、それを気にする余裕はない。
誰の、だ?これ、誰の腕だ?
「あァ、ヤっとだ。やット見つケタぞ、“拒絶の魔女”」
声を掛けられた瞬間、まるで全身を害虫が駆け上がってくるような途方もない悍ましい錯覚を受ける。呆然とする僕に、男性の声に蠅の羽音の様な不愉快な雑音を混ぜた様な声が響く。
「見付けタトきは歓喜したゼ。“九尾の魔女”に殺さレたト聞イていたが、よもやコノ様な処で隠レ住んでイルトは。オ誂え向きニ魔法が壊レた状態とキテいる」
目の前に立っていたのは、ごく普通の、平凡で冴えない中年のサラリーマン……の様な“何か”だった。見た目だけなら普通の人間に見える。だけど、気配が違う。存在が違う。その男の全身から、まるで蠢く虫の塊の様な雑多な気配が、モゾモゾと不気味に、不愉快に放たれている。
「……魔、獣なのか?」
「如何にモ。“蠅山の魔獣”ベルゼ。それが俺達ノ名だ」
余りの不気味な気配に、顔を顰めながら尋ねると、その魔獣は恭しく名乗る。
……喋っている、名乗っている。今までエランティス以外に言葉を解する魔獣は見たことが無かった。それだけでも今までの魔獣と格が違う事が分かる。そして何より、放たれる気配の桁が違う。
「さテ、邪魔が入ル前に“拒絶の”ダケでも頂くトしヨウ……」
遠慮なしに近づいてきた蠅の魔獣が僕の頭に向かって手を伸ばす。この手に触れられれば僕は死ぬのだろうという確信に近い予感がある。振り返って走り去るべきなんだろうけど、足が言う事を聞かない、走るどころか、僕の命を終わらせようと近づく手から、目を逸らす事すら出来ない。魔獣は恐怖に震える僕に笑みを深め、焦らすようにゆっくりと手を伸ばすと――
「――貫け、“神槍”ッ!」
その手が僕に触れる寸前で、魔獣のすぐ後ろから鈴の音の様な少女の――いや、アーニャの叫び声があがる。ゼロ距離から放たれた光を放つ巨大な白い槍が蠅の魔獣の胸を、まるで紙を破るかのように貫いていた。
「ご、ガ……」
肺を潰されたのだろうか、掠れたうめき声だけをあげた蠅の魔獣にアーニャが容赦なく追撃を加える。
「吹き飛べ!“追放”!!」
けたたましい音をあげ、建物の外にまで吹き飛ばされていった魔獣を呆然と見やる。しかし、呆けている暇があるはずもなく、必死に僕達の名を呼ぶアーニャの声に、僕はやっと現実に引き戻される。
「悠っ!エランティス!大丈夫!?」
「アー……ニャ……?」
「最悪です!二人とも逃げて下さい!
選りにもよって『名付き』の、しかも“蠅山の魔獣”だなんてッ!」
聞きなれない単語をアーニャが叫ぶけれど、そんな事には気が回らない。
「アーニャ…… どうしたんだよ、それ……」
声が震える。視界が霞み、アーニャの声がやけに遠く聞こえる。僕は震える指でそれと呼んだものを指す。
いや、正確に言うならば、そこに在るべきものが無い。
「……『名付き』の魔獣相手に腕一本で済んだのなら僥倖です。そんな事より、早く逃げて!」
「そ、そんな事って!腕も無いのに……!」
そんな事で済まされる問題じゃないだろう!腕が無いんだぞ!?痛くないのかよ!血だって、こんなに……と、そこまで考えて気付いた。斬りおとされたであろう右腕の断面からは血は一滴たりとも溢れておらず、代わりにサラサラと雪の様な粉が断面から流れ出していた。
「アーニャ・ガランサス!」
ビクっと声があがった方を振り向くと、先程の落ちていた右腕を咥えたエランティスがアーニャに向かってそれを投げている瞬間だった。それを受け取ったアーニャが目を瞑り、瞑想すると、切り離された右腕がまるで崩れる様に光の粒となり、アーニャに吸収される。そして同時に、アーニャの腕があったであろう位置に光の粒が現れ、次の瞬間には何事も無かったかのように右腕が在った。
……魔法ってすごい。
「エランティス。……ありがと」
「礼は要らぬ。それよりも……
クソッ、よりにもよって“蠅山の”だと!?思い得る限りの最悪の相手では無いか!」
忌々しそうに叫ぶエランティス。その表情からは現状が最悪な事態だということが察することができる。
「そ、そんなに強い相手なのか?」
「……強さ自体は『名付き』の中では下位だ。それでも今の我等が束になっても勝てぬがな。問題はアレの特性だ」
「蝿山の魔獣は、その名の通り山のような数の蝿の集合体の魔獣です。個々が魔力を持ち、それぞれの個が持つ情報を共有して、総体にして一つの意識とした魔獣」
「索敵においてこの魔獣を超えるものを知らぬ。あらかじめ全てを知る事のできる“前知の魔女”位だ」
アーニャの言葉であの魔獣から感じられる大量の雑多な気配の理由を知る。そしてエランティスの言う“最悪な相手”の理由も。
山のような数の蝿、それがインターネットのように情報や意識を共有した時、それから逃げる事が出来る存在が居るのだろうか。不可能だ。少なくとも僕たちにとっては。
「アーニャ・ガランサス、“追放”はあとどれ程持つ?」
「もって数分……駄目ね、あと数十秒ほどで解けるわ」
「……足止めが要るな。問題は、誰が残るか、か」
は?え、残る?足止め?
「の、残るって、逃げるのか?此処に誰かを置いて?」
「仕方あるまい。今の我らにアレを倒す術は無い」
「だ、だからって」
じゃあ残った誰かはどうなる?決まっている。二人共で戦っても勝てない相手だ。間違いなく、残った人は、死ぬ。
「そんなの嫌だ!みんなで逃げればいいじゃないか!!」
「弁えろ、竜胆悠。誰かが犠牲にならねば間違いなく捕まり、3人共野垂れ死ぬ」
「そん、な……」
エランティスのあまりの物言いに、アーニャの助け船を乞おうと振り向く。そこには決意を固めた表情のアーニャが居た。
「……残るべきは、私…… でしょうね」
「アーニャっ!!」
「悠、あなたでは足止めも出来ない。無駄死にです」
「――ッ!」
「エランティスは蠅山の魔獣にとって標的ではありません。あれの目的は私か悠の“身体”でしょうから。だから、エランティスとの戦闘を離脱して、私たちを追ってくる可能性が高い。そうなれば、犠牲者が増えるだけです。
……私が、私が残るしか無いんですよ」
「そん、な」
「悠、ごめんなさい」
耳元でアーニャの呟きのような懺悔が聞こえる。それと同時に目の前にチカリとした光が走る。どうやらこの光は睡眠魔術なのか、急速に僕の意識が遠のく。瞼はあがらえないほど重く、意識は霞みがかり思考も纏らない。
まっ、て……。アーニャ、いか、ないで……。わたしは、もう、大切な人を、失いたく……
◆◇◆◇◆◇
――子犬の姿から、大型犬の大きさにまで変化したエランティスが、背中に気を失った悠を乗せるのを見ながら、アーニャは言う。
「エランティス。今まで、ありがとう。
……さよなら」
「……さらば」
――ティアナの願いと復讐を果たす為、長年共に歩んだ二人にとっては、あまりに短く、そして十二分な言葉を交わし、背後には一瞥もくれずエランティスは駈け出した。
――そしてエランティスが去ってから十数秒後、“追放”の封印を破った蝿山の魔獣と対峙するアーニャ。目論見通り蝿山の魔獣はアーニャを標的と定めている。
「弾き飛バシた先で封印までシテクれるとハ、随分と手ノ込んだ魔法だナァ、“御使いの”?」
「もう少し長く封印されてくれても良かったのだけど」
「クハッ、イヤいや。レディを待たせる訳にはイカナいんでね。さァ、一緒にディナート洒落込もうか」
――メニューはお前だが、と言外に蝿山の魔獣は語る。
「生憎と、大人しく餌になるつもりもありませんけれど」
――これより先は撤退戦。
――眼前には万を超える蝿の軍勢。
――大切な友の為、命に掛けて殿を果たして見せよう。
――“御使いの魔女”アーニャ・ガランサスのあまりにも絶望的な戦いが始まった。




