第三十五話
僕達の目の前に置かれた鉄板が、ジュウジュウと何とも食欲を誘う音を奏でており、その上に置かれた牛肉はなんとも香ばしい香りを放っていそうだ。
牛肉を焼くと言うあまりにもシンプルかつ単純な調理の為、素材の味と焼き加減がその料理のほぼ全てと言っても過言ではない高級料理、ステーキである。
「ゆ、悠ちゃん、ステーキだよ、ステーキ」
「綾?見れば分かるよ」
僕と綾は、朝日さんの言っていた、手料理への恩返しと言う事でこのお店にごちそうになりに来ている。洋風で、洒落た雰囲気のステーキ専門店だ。こっそり値段を確認すると、この量でネットカフェに3泊は出来る金額だ。げ、原価数百円の料理に対してこのお返しは、気合入りすぎではありませんかね朝日さん……
「う、うちめっちゃ久しぶりに食べるかも…… 施設じゃステーキ出たことないし」
「綾……っ!」
綾の発言に目頭が若干熱くなる。あぁうん、うちの施設あんまり裕福じゃないもんね。でも義援金や国からの補助金で経営している以上、贅沢なんて出来ないし……
同じ様なことを考えていたのか、朝日さんも何とも言えない微妙な表情をした後、綾を元気付ける。
「良かったらまた連れてきてあげますよ。今日は好きなだけ食べてください」
「やったぁー!朝日さん、ありがとうございます!」
「こんな高そうなお店、すみません。ありがとうございます」
「冷めないうちに食べましょう」と朝日さんに促されるまま、僕と綾はステーキを小さく切り口に運ぶ。この値段なだけあり、口の中で溶けるように歯が通る感覚は、成程、確かにこの肉が高級品だということを教えてくれている。
「……っ!……ッ!」
綾に至っては、光る星が幻視が出来そうな程、目をキラキラさせて、言葉にならない感動を噛みしめている。確かに高級なステーキに僕も感動はしているけど、流石に綾程素直に、純粋に喜ぶことは出来ない。
「た、高いお肉ってこんなに柔らかいんだね!一回噛んだだけで切れちゃった。うち、ここ数年何度も噛まないと千切れないお肉しか食べたことなかったよ!」
だから目頭が熱くなるからそう言う発言はやめてって。
たどたどしくナイフとフォークを使いながらステーキを綺麗に平らげた綾の「フォーク使う料理なんて滅多に食べないから、難しかったよ」と言う発言に遂に僕が我慢できなくなり、綾を抱きしめて頭をなでると言う事件があったものの、おおむね僕達の食事会は平穏無事に終了した。
そして僕達は今、朝日さんの車で施設まで帰宅途中だ。はしゃぎすぎた上に満腹になってしまったせいで眠くなってしまったのか、綾は僕の肩に頭を任せながら、スヤスヤと可愛らしい寝息を立てていた。
「竜胆さん」
「はい?なんでしょう」
「いえ、あまり食事を楽しんでいるように見えなかったので…… 肉料理は嫌いでしたか?」
……鋭いなぁ。さすがは未来の警部と言った所か。
「……いえ、ただこんな高そうなお店に連れて行ってもらって、申し訳ないなと思っていただけですよ」
「そうですか、確かに奮発しすぎましたかね……」
「でも、楽しんでいないように見えたのはごめんなさい。格式高そうなお店でちょっと緊張していたんです。ドレスコードとかありませんよね?」
「ハハ、そんな事まで知ってるんですね。あの店にはそんなのありませんよ。ほら、私だって私服ですし」
「そうですね。でも、今日は本当にありがとうございました。とても感謝してます」
恐縮する朝日さんの後頭部と、バックミラーに映る目元を見ながら僕は失礼な事を考える。
(ただ、出来ればもう少し早めに誘ってほしかったかな)
――最近、食事が苦手になった。
味覚を失った舌では、どんなに美味しいものを食べても口の中に異物を放り込んでいる違和感しか覚えられず、赤と青の色を失った視界では、どんな新鮮な食材もまるで腐った様に見え、嗅覚を失った鼻では料理の香りを楽しむこともできない。
味覚が無くなって、食事が苦痛に成り果てたとしても、僕の体は食事をしない訳にはいかない。食べなければお腹は空くし、そのままでいれば、総ての感覚を失う事を待たずに飢え死にしてしまうだろう。だからこれは、事務的に栄養を取る為だけの食事。
エランティスは遅くてもひと月と言ったけれど、僕の終わりの兆候は思ったよりもずっと早くやってきた。あの日から2週間程、つまり半分。今ではそこまでの恐怖心は感じていない。味覚がわからなくなった時の、狂ってしまうのではないかと思う程の恐怖心すらも今は殆ど感じる事すら出来なくなっていた。感情が鈍っているのかもしれない。
(……もう少し、生きたかったなぁ)
そして最近、泣き言が増えてきた。自分でも女々しいと思う。
勿論、足掻かなかった訳ではない。エランティスが僕とティアナさんとの間の確信できる程の“何か”。それを探すために思いつくことはしてきた。と言っても僕の身の上話や、ティアナさんの思い出話になる以上の成果は得られなかったけれど。
「打つ手無し、詰みだ」と称したのはエランティスで、おそらく一番気に病んでいたのも彼だった。無理もない。僕だって、僕の気持ちひとつでアーニャやエランティスの命が左右されるとしたら、それがどうしようも無い状態になったのだとしたら、自己嫌悪で潰れてしまうだろう。
僕の“わがまま”で二人には迷惑をかけている。だからこそ、何事も起こらないで欲しいと言う願いと、出来るだけ長く生きて居たいと言う両立できない願いだけが、僕の胸を占めていた。
◆◇◆◇◆◇
アーニャの家のテーブルを囲んでいるのは僕と、アーニャと、エランティスの3人だ。囲んでいると言っても、僕とアーニャが向かい合い、エランティスは僕の膝の上だけど。
「……どう?エランティス?」
「…………」
黙って首を振るエランティスに、僕とアーニャは揃って深いため息をつく。
今日は僕の魂の乖離状態を検査する為に集まり、エランティスはその為に僕の膝の上に居る。まぁ身体が触れ合っていれば検査出来るらしく、無理に抱く必要は無いけれど。
「魂の乖離はかなり深刻な状態まで来ている。応急措置では如何様にもならん」
「っ!そんな……まだ、まだ何か……!」
泣きそうなーーいや、もう泣いている声でエランティスに詰め寄るアーニャの姿を見て、僕もそろそろ覚悟の決め時が来たことを悟る。
震える体を何とか誤魔化しながらもアーニャ の頬に手を添えて僕は何とか笑みを浮かべる。
「もう、いいよ」
「…………悠?」
「ごめんね、僕のわがままに付き合わせちゃって」
「やめて」
僕が言わんとする事を察したのか、青い綺麗な瞳から大粒の涙を零しながら、アーニャが拒絶する。
「短い間だったけど、二人に会えてよかったよ」
「お願い、止めて、聞きたくない」
頬に添える僕の手に、アーニャが手を重ねる。彼女の身体の震えが伝わる。そして再びアーニャが拒絶の言葉を呟く。はは、それはわたしの専売特許なのに。
「エランティス、アーニャ。今までありがーー」
――ゾクリ
「……!?」
「……ッ!?アーニャ・ガランサス!」
「……分かってるわ!」
別れの言葉を述べようとした寸前、背筋に氷を落としたような、全身を凍らせる悪寒に身を震わせる。魔力、これは魔力なのか?今まで感じたことのあるどんな魔力よりも悍ましく、穢れている感覚がする。
アーニャが目を袖で強くゴシゴシと拭い、溢れる涙を強制的に止めながら、魔法の詠唱をしている。
「エランティス、何が起こったんだ!?」
「“門”が開いたのだッ!くそッ、予兆も無しに!」
パニックになりかけている僕が、エランティスに叫ぶ様に問うと、彼にしては珍しく焦燥し、切羽詰まった声色で叫ぶ様に答える。その事が、現場が緊急事態だと言うことを雄弁に語る。
「悠、エランティス!!先に行ってるわ!!」
素早く詠唱を唱えたアーニャが、天使の翼で羽ばたきながら叫ぶ。
「アーニャ!……無理、しないでよ?」
「ありがとう、悠。がんばります!」
僕の心配を分かって居るのか分かっていないのか判断に困る返事をし、その返事を最後に、まるでロケット弾のように飛び立つアーニャ。このスピードがあれば、魔獣の被害を最小限に抑えることが出来るかもしれない。
「我等も行くぞ」
「あぁ」
そして僕達も、おぞましい魔力の発信源に向って走る。嫌な予感を抱えたまま戦場にたどりついたのだ。
「おい、待ってくれよ」
恐らく魔獣が出現し、アーニャが応戦している建物の敷地に入ろうとするエランティスを、呻くような、絞り出すような声で制止する。
「どうした竜胆悠。万が一魔獣を逃した場合、まず最初に狙われるのは汝だ。あまりアーニャ・ガランサスから離れるのは得策とは言えぬ」
エランティスの生き残る為のアドバイスも耳に入らない。近づく程膨らんでいった恐怖と、違っていてくれと言う願いは、この建物の前に立った瞬間、風船のように弾けて割れた。
「どうして此処なんだよ。
だって、此処は……」
見慣れた正門は、何か巨大なものがぶつかったように歪み、本来の場所から十数メートル離れた位置にスクラップのように横たわり、見慣れた庭は隕石が降って来たかのように抉れ、見慣れた建物は爆撃を受けたように一部が崩れていた。
見慣れた場所。けれども、見たことのない、見たくもなかった光景。
だって、ここは僕が今住んでいる、児童養護施設じゃないか。
若干遅刻ごめんなさい




