第二十二話
昏い。
暗い、暗い。何も見えない。
閉ざされた視界は何も映さず、ただ真っ黒な闇だけしか見えない。
どうしてこんな事に?そう後悔しても全ては後の祭り。よく後悔先に立たずと言うが、もし叶うのならば、あの時の自分に会って思いっきり右ストレートをかました後、懇々と説教をしたい。迂闊な事を口走るなと。考えなしに約束をするなと。勿論、僕の使える魔法に時間を遡る力など全く無く、それは無駄な願いでしか無かったのだけれども。
「悠、そんなに目を強く瞑ったら痕になってしまいますよ?」
「うん、でも、今だけはこうさせて欲しいんだ」
今僕とアーニャが居るのはアーニャの家の浴室だ。1人暮らし用にしてはやや広めの二畳程度の浴室だけど、流石に2人で入ると少し狭い。水栓とカガミの前に置かれたバスチェアーに僕が腰かけ、その後ろでアーニャが僕の髪を、やけに上機嫌でシャワーで流しているのが今の状態だ。勿論お風呂の中なので、僕達の身体を覆う防御はとても薄く、儚い。バスタオルと言う名の鎧だけだ。
いくら自分の身体を見慣れたり、性欲が薄くなったとは言え、流石にこんな美少女の艶姿を目の当たりにして自制できるかと言われると、自信が無い。その為僕は、必死に見るまいと目を固く、固く、光の一片たりとも許す余地なく瞼を閉じているのだ。アーニャが呆れた風に注意するが、今の状態でも想像力と妄想力で悶々とした心を引き締めるためにも、ここを譲る訳にはいかなかった。
「私もシャンプーする時目を開けるのは出来ませんけど、そこまで必死に閉じなくても……」
「あぁ、うん、そうだね……」
いや、別に僕はシャンプーの時に目は開けれますけどね。アーニャと一緒にしないで頂けますでしょうか。とは言わないでおくのは僕の優しさだと知ってほしい。幾つか適当に理由をでっちあげると、「分かりました」とあっさりと信じて引き下がった。
「それにしても、髪の方は…… 少し、痛んでますね……」
小さく溜息をつきながらアーニャが僕の頭を、恐らく泡立てたシャンプーを取った手で、まるで頭皮を撫でる様にして洗いだした。
「お、おぉ、これは……なかなかに気持ちいい」
指先でゴシゴシとしていた僕の洗い方と違い、アーニャの洗い方は指の腹でまるでマッサージをするかのような洗い方だ。しかし、その力加減は何とも絶妙でかなり心地良い。美容院でのシャンプーも気持ち良いけど、アーニャのそれは更に輪をかけて格別だ。
「はい、流しますよ」
たっぷりと時間をかけて頭皮を洗い、ややぬる目のシャワーで、これまたじっくりと髪を洗い流す。
「結構時間かけて流すんだねぇ」
「頭皮にシャンプーが残っていたらフケや痒みの元になりますからね」
「へぇ。今までシャンプーの仕方とか気にした事無かったよ」
「あら、でも、ちゃんとした洗い方をしないと男性の方も頭髪が薄くなるって聞いた事が」
「え゛っ」
その言葉を聞いて思い出したのは親父の顔だ。正確にはその顔の上部辺り。有り体に言って髪の毛の事だ。今年で御年54歳になる親父は、その、まぁ、頭髪が乏しいと言うか、おでこの前線部分が後退していると言うか、ぶっちゃけ少しハゲていた。親父に変わり弁明するならば、男性は年齢を重ねれば男性ホルモンによって頭髪が薄くなるのは至極当然、当たり前の事であって、むしろこの年までこの量の髪を残せたのは普通、いや、普通よりちょっと少ない程度で、中の下、下の上くらいの余力で生存していた筈だ。
だが、僕は間違い無くその親父の血を引いていた訳で、いや、あの父親からどうしてこんなに可愛いらしい子が(女顔的な意味で)とか、母親に似て良かったわねとか言われていたけれど、恐らく親父の血を引いている僕にとっては非常に由々しき事態だ。因みに其れを聞いていた親父の何とも複雑な表情には心底同情した。
「は、ハゲるかな?親父は結構薄いし、不安ではあったんだけど、僕もヤバイかな?」
「……悠、落ち着いて目を開けて、鏡を見て下さい」
アーニャに言われるがままに目を開けて見ると、其処には栗色の髪を水に濡らした、この数週間で見慣れた美少女。まぁ、つまりは僕だ。
「あー……」
「悠、あなたは今女性です。何故かは知りませんが、女性は男性と比べて頭髪が薄くなる事はあまり無い様ですし、えっと、その事についてはあまり心配する必要は無いと思いますよ」
呆れたようにアーニャが言う。いや、男ならば自分の頭髪の問題については敏感になってしまうのは仕方のない事だと思う。特に父親が、その、“乏しい”人だった場合は猶更だ。とか何とかどうでもいい自己弁護を考えていた僕にふと“あるもの”が視界に入った。
一つだけ弁明するならば、“ソレ”が視界に入ってしまったのは僕の意思では無い。神の見えざる手だとか、悪魔の悪戯だとか、そういった何か超常的な偶然よってもたらされたものである。
僕は今、カガミの前に座っている。
アーニャは僕のその後ろに居る。
そして僕は今、カガミを見ている。すると何が起こる。答えは一つだ。
まず思ったのはその肌の白さだ。元々の色素の薄さもあるだろうけど、まるで踏まれていない無垢な雪の様な白さに、浴室の熱気に当てられたのか、桃の様な僅かな赤みを合わせた肌は、現代日本では目にする事は滅多に無いだろう。そして、あまり女性の肌に詳しくない僕でさえ分かるほどその肌は瑞々しく、お湯や蒸気による水滴を此れでもかと言わんばかりに弾いている。スタイルの方についてはこの位の少女のものとしては恐らく普通、平均的なものであると思うが、胸元から脚の付け根まで巻かれたバスタオルによって隠されたその聖域は、逆に見えないことにより、艶かしい色気を醸し出して居た。
あまりの事態にポカンと口を半開きにしたまま、鏡の中のアーニャの肢体に目を奪われていると、ふとその鏡の中で目と目が合う。
「ご、ゴメン!」
首が折れるのではないかという勢いで僕は視線を逸らす。実際ポキッという小気味のいい首の関節の気泡が破裂した音が浴室に響いたのだけれども。痛ぁー。
「もしかして裸を見るのが恥ずかしかったんですか?いいじゃないですか。別に、“女同士なんですし”」
「えっ、いやでも僕は精神は男のものだし……」
「でも、今は女性でしょう?」
……アーニャが何故ここまで僕に対して無防備なのかが分かった。僕が男だった事は知っている。だけど、彼女は僕を今は完全に女だと思ってみているんだ。デートに行こうと言うのも、ただ単純に女同士で遊びに行こうと同じニュアンスだったから、あんなにあっさりとした態度だったんだ。
それに気づくと何だか必死に見まいとしていた自分が馬鹿らしく感じてしまった。確かに僕は男だったけど、エランティスが言うにはもう男に戻る事は出来ないらしいし、意地を張っても仕方のない事の気がする。
「僕が気にし過ぎてただけなのかなぁ」
「そうですよ。さて、次はコンディショナーですよ」
そう言って次はコンディショナーに手を伸ばすアーニャ。まぁ、今やるべきはこのヘア&スキンケアの仕方をしっかりマスターする事だ。でないとアーニャは何度も実習を行うだろう。気にしないと決めたとは言え、やはり気まずいのであまり何度もするのは避けたい。
「コンディショナーはシャンプーとは逆に、頭皮には付けないように……」
「洗顔はそんなにゴシゴシとしないで!泡で撫でるくらいで調度……」
「スクラブ洗顔は肌を痛めるので週に一度だけ……」
「…………」
「……」
「あぁ~~」
「悠…… 年寄りみたいですよ」
顔と髪の正しい洗い方を懇々と御鞭撻して頂いた僕の精神は完全に疲れ切り、少し熱めの浴槽にジャボンと浸かった時の余りの心地良さに思わずお腹の底から声が出る。アーニャの言うとおり年寄りくさい、と言うかおっさんくさいけど、少女の声色なら多少は許されそうな気がするのは何故だろう。
「出るもんは仕方ないさ。いやー、風呂は命の洗濯ってね。
それにしても、髪や顔の洗い方も大変だわ。まさかここまでやる事が多いとは思わなかったよ」
「それについては悠が適当すぎるだけです」
僕は湯船に浸かりながら、アーニャは髪を洗いながら、そんな他愛も無い事を話す。
「あれ、悠?顔赤いですよ?大丈夫?」
「んえ、やば、逆上せたかな」
洗顔が終わったアーニャが顔をあげ、こちらの顔色をみて少し焦ったように言う。そう言えば少し体がだるくて頭がボーっとする様な気がする。顔も少し熱い。体を冷やそうと慌てて立ち上がり、すぐに後悔する。視界がグラグラと揺れ、心臓が早鐘の様にバクバクと鳴るのを感じる。
「っ!?」
「ちょっと、悠?悠!?」
暗く、まるで闇が外側から飲み込む様に、僕の視界と意識は沈んでいった。意識を手離すまで、アーニャの僕の名を呼ぶ声がやけに耳に残っていた。
◆◇◆◇◆◇
「ん、ンん……」
フカフカの布団に包まれて目を覚ますと言う久々の感覚に僕は唸りながら目を開ける。ネットカフェのリクライニングチェアーとブランケットの組み合わせと比べると
「僕は…… あぁ、風呂場で逆上せて倒れたのか」
記憶を漁るとあっさりとその原因に辿り着く。この身体になってから一月近くたったけど、僕の宿泊場所はネットカフェだ。シャワーがあるが、流石に浴槽まではない。浴槽に浸かった事の無い僕が、熱いお風呂に長時間浸かった為に、こうして倒れてしまったというわけだ。加えて食生活のせいで貧血気味なのもあるのかもしれない。
「んー…… アーニャの匂い……」
寝返りを打ち、誘われるように枕に顔をうずめる。今僕が転がっているのがアーニャのベットだろう。どことなくアーニャの香りがする。勿論臭いとかそう言った悪い意味合いはなく、女の子特有の甘い、いい香りだ。そう言えば今日使ったリンスも似たような匂いだった。あの匂いってリンスが元だったのかな…… 等と考えていると、不意に声がかかる。
「えっ、臭います……?」
「へあっ!?」
慌てて枕にうずめていた顔を上げると、其処には「一昨日洗ったばかりの筈なのに」と呟くアーニャの姿が。
き、聞かれてた!?女の子の枕に顔をうずめて匂いを嗅ぐなんてどう見ても変態の所業だ。
「ごめん、匂いを嗅ぐつもりじゃ…… ってか臭くないし!いい匂いだし!!」
「そ、そうですか……」
しまった!言い訳になっていない!
微妙に引いてるアーニャに、僕は必死に謝り倒すのだった。




