やってやれないことはないー
早朝の澄んだ空気の中、私は庭の冷たい草の上に背中から倒れ込んでいた。
見上げた空には、まだうっすらと白っぽい月が残っている。これから昇ろうとする太陽と、去りゆく月が並んで見えるなんて、どこか神秘的でロマンチックだわ。
私は倒れたまま、激しく上下する苦しい胸を落ち着かせようと、深く息を吸い込んだの。そして、すぐ脇に立ったまま私を見下ろしているヨハンを見上げたわ。
「ヨハンって、今何歳だったかしら?」
「今年で35になります」
落ち着いた声で答えるヨハンに、私は小さく頷いたの。
「私、今12歳なの」
ヨハンが「ええ、存じております」と言うように頷く気配が伝わってくるわ。私はできるだけ大人びて落ち着いた風を装いながら言ってみたの。
「35歳が12歳相手にここまで本気になるなんて、ちょっと大人げないと思わない?」
私の軽口に、ヨハンは肩を揺らして笑っているみたい。
「これは失礼いたしました。もう少し手加減をした方がよろしかったですか?」
その問いかけに、私は大きく首を横に振ったわ。
「そういうことじゃないのよ。これ以上手加減なんてされたら、悔しくて泣いちゃうわよ、私」
ヨハンは利き手ではない方の手で木剣を握り、さらには両足まで紐でしっかりと縛られて一歩も動けない状態になっている。
これ以上の手加減だなんて、一体どうすればいいというのだろう。木剣を奪ってただの木の枝でも持たせればいいのかしら。
けれど、そんな申し出を受け入れるなんて私のプライドが絶対に許さないわ。
ヨハンは頭を掻きながら、心底困ったように笑った。
「なんとも難しいですね」
私もつられてくすりと笑いを漏らし、そのまま彼を見上げた。
「そういうお年頃なの」
私は勢いよく身体を起こすと、すぐ傍に立つヨハンを見上げたの。
「私が今のヨハンの歳になる頃には、今のあなたと同じくらい強くなっているかしら?」
ヨハンは両腕を組むと、少し首を傾げて悩むような表情を浮かべたわ。
「それはどうでしょう?もしかしたらもっと強くなってるかも、知れませんぞ」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わずほっぺたが緩んでしまうのを抑えきれなかった。
「本当?私、強くなる?」
「姫様の努力次第ですが、センスはあるかと」
ヨハンがにこやかに微笑んでそう言ったの。嬉しくなった私は、思いっきり勢いをつけてその場に立ち上がってみたわ。少し体がよろけたけれど、そんなの全然問題ないわ。
「わかったわ!私、もっともーーーーとっ!がんばる!20歳までに今のあなたを越えて見せるわ!」
「それはそれは、大きくでましたな」
ヨハンが楽しそうに声を上げて笑ったわ。私はくるりと彼の方を振り返るの。
「だって私、センスあるんでしょう!?」
思わず弾んだ声が出た。
「そんなこと、馬術以外では初めて言われたもの!」
ヨハンは、そんな私をあたたかな眼差しで見つめると、深く頷いてくれたわ。
ヨハンはそろそろ仕事の時間だそうで、今朝の稽古はこれまでとなった。
彼が自分の両足を縛っていた紐を丁寧に解き、それを小さく折りたたんでポケットに仕舞う様子を、私は芝生の上に座り込んだまま眺めていた。そうしているうちに、頭の中にいろいろな疑問が湧き上がってきたのだった。
「ヨハンはどこで剣術を身につけたの?」
「私はこの屋敷に来る以前は、軍にいましたので」
ヨハンは自由になった両足をぐっと伸ばしながら、そう教えてくれた。
そう言えば以前、お父様からそんな話を聞いた気もするわ。けれどその頃の私は軍隊なんてものにまるで興味がなかったから、あまりちゃんと話を聞いていなかったのだ。
「そうなんだ?強かった?」
「軍は...騎士や剣士と違って、強い弱いというものではありませんので...階級で言えば、大佐になりますが」
ヨハンは答えに悩むように、少し思案顔をしているみたいだった。聞いたことのない言葉が出てきたので、私はストレートに尋ねてみる。
「大佐って?すごいの?」
「すごくはありませんが、それなりに重要な役職になりますな」
困ったような苦笑いを浮かべてそう答えるヨハンだったけれど、やっぱり私にはいまいちよく分からないわ。
「私のうちで例えてくれない?」
「そうですね……家令、とまではいきませんが、侍従長あたりでしょうか」
ヨハンはさらに頭を悩ませた様子で、そう例えてくれた。
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず目を輝かせたのだった。
「え!すごいじゃない!めちゃくちゃ偉かったのね!」
この広い屋敷のすべてを取り仕切るあの頼もしい人たちと同じくらいだなんて!
私の思いきり感心した様子に、意図がしっかり伝わったと安心したのか、ヨハンはふうっと大きく息を吐いていた。
私はヨハンがすごい人だったということにすっかり嬉しくなってしまって、思わず無邪気に尋ねてしまった。今思えば、あれは私の失敗だったわ。
「そんなに偉かったのに、どうしてやめちゃったの?」
するとヨハンは、ほんの少しだけ躊躇するような顔をした。私はその時の彼の表情を、今でもよく覚えているの。
「姫様、こんなもの貴女に見せるべきではないとは思うのですが...あえてご覧ください」
彼は静かにそう言うと、くすんだ作業用のサロペットの裾をゆっくりと捲り上げた。
「あ...」
思わず目を見開いて、私は両手で口元を覆ってしまったわ。
捲り上げられた布地の下から現れたのは、生身の肌ではない。無機質な金属製の足だったから。
――義肢。
お話では聞いたことがあるわ。手足をなくした人の代わりとなる、人工の手足のこと。東大陸では極々一般的なもので、ハリスは産業としても力を入れていて研究開発が盛んに行われているって。
歴史の授業でも聞いていたから。
知識としては知っていたけれど、小さな頃からずっと知っているヨハンがそうだったなんて。私は驚きのあまり完全に固まってしまって、気の利いた言葉一つ返すことができなかったの。
今思い返せば、とても失礼な態度をとってしまったと思うわ。
それでもヨハンは、いつものように優しく笑いかけてくれたの。
「これで私は除隊したのです」
しばらく固まったまま動けずにいた私を見て、ヨハンが気遣うように言った。
「驚かせてしまいましたな、申し訳ありません」
彼が捲り上げたサロペットの裾を静かに戻そうとするのを見て、私は何か言わなくちゃと必死に頭を働かせた。無言のままでは彼を傷つけてしまう気がして、慌てて口を突いて出た言葉は、どこか見当違いなものだった。
「ねぇ、痛いの?」
今思い返せば、これも意味不明な問いかけだったと思う。私って、昔は本当に馬鹿だったのかもしれないわ。
予想外の言葉だったのか、ヨハンは驚いたように目を丸くした。普段は落ち着き払っている彼のそんな表情は、なんだかちょっと大きな犬みたいで可愛い。
「いいえ、痛くはありません。姫様は本当に、お優しい」
穏やかな声でそう答えられ、また彼に気を遣わせてしまったのだと気づいた。本当に気を遣うべきなのは、不用意に驚いてしまった私の方なのに。
私はそっとヨハンに近づき、その足元にしゃがみ込んだ。
「触っても、いい?」
ヨハンは目尻に細かな皺を寄せ、どこまでも優しく微笑んだ。
「少し、冷たいですよ」
私はそれを了解の言葉と受け取った。恐る恐る手を伸ばし、その金属の足に指先で触れてみる。
「つめたっ!?」
思わず素早く手を引っ込めてしまった。だって、まるで冬の朝の氷のように冷たかったから。
驚いて肩を跳ねさせた私を見て、ヨハンが声を上げて笑った。その屈託のない笑い声に安心し、私はもう一度、今度は手のひら全体でそっと触れてみる。
冷たい。硬い。……でも、嫌じゃない。
不思議な感触を確かめながら顔を上げると、私はヨハンを見つめて思わず微笑んでいた。
「ヨハン、ありがとう」
突然の感謝の言葉に、ヨハンはきょとんとして目を瞬かせた。
「ヨハンが頑張ってくれたから、ハリスは今も平和なのだもの。私が今、ここにいるのもヨハン達のお陰だわ」
私はすっと立ち上がると、背筋を真っ直ぐに伸ばした。そして、礼儀作法の授業で習ったばかりの、貴族の令嬢として最大限の感謝を示す優雅な作法をとってみせた。
「だから、ありがとう。ヨハン」




