第六話 恐怖という商品
「……で、お嬢さんは具体的にどうやってその『権利』とやらを売るおつもりで?」
酒場『黒い錨亭』の薄暗い奥席。
パイプ煙草の紫煙が燻る中、粗末な木製テーブルを挟んで俺と対峙するのは、手配師のハンスという男だ。顔のあちこちに古い傷跡を持つこの男は、港街ラグラドで中規模の船主や中堅商人たちを束ねる顔役の一人である。
俺の隣ではトマスが、生きた心地がしないといった表情でガタガタと膝を震わせていた。
「簡単な話よ、ハンス」
俺はテーブルの上に、上質な羊皮紙を一枚滑らせた。前夜、アリアの部屋で羽ペンを滑らせ、緻密な数学的計算の上に契約条項を書き込んだ手製の契約書だ。
「いま、港の商人たちは香辛料船団が海賊に襲われるかどうかの噂で持ち切りでしょう? 香辛料の現物価格は現在、袋あたり銀貨70枚。だけど、もし無事に船が着けば銀貨20枚に暴落し、船が沈めば銀貨120枚に暴騰する。……違うかしら?」
「ふん、察しがいいな、アリアお嬢ちゃん」
ハンスは黄ばんだ歯を見せてニヤリと笑った。
「その通りだ。買い手は『船が沈んで価格が跳ね上がったら仕入れられない』と震え、売り手は『船が無事着いて暴落したら大赤字だ』と頭を抱えてる。おかげで誰も怖くて取引に手を付けられねえのさ」
「だから、この羊皮紙の出番なの」
俺は羊皮紙の表面を指でトントンと叩いた。
「これは『コール・オプション(買付選択権)』。来月末、香辛料の市場価格がいくらになっていようが、我がローゼンバーグ商会から『袋あたり銀貨90枚』の固定価格で香辛料を買い取ることができる権利書よ」
ハンスが眉をひそめる。
「……90枚? 今の相場は70枚だぞ。20枚も高いじゃねえか」
「まあ、聞きなさい。この権利書自体の価格は、一袋当たり『銀貨5枚』で売り出すわ。もし船団が無事に着いて香辛料が20枚に暴落したら、この権利を捨てて普通に買えばいい。損するのは権利代の銀貨5枚だけ。——でも、もし船が沈んで香辛料のの価格が銀貨120枚に上昇したら?」
ハンスの目が、不意に鋭くなった。
「……120枚の香辛料を、90枚で買える。権利代の5枚を引いても、袋あたり25枚安く買えるわけか」
「察しが良くて助かるわ。つまり買主は、わずか銀貨5枚の保険料を払うだけで、価格暴騰という致命的なリスクを緩和できる。……これ、欲しいクライアントは山ほどいるんじゃないかしら?」
「……確かに、大金を張ってる連中なら喉から手が出るほど欲しいだろうな。だが、それだけじゃねえんだろ?」
ハンスが身を乗り出す。さすがは海千山千の商人だ。匂いを嗅ぎつけるのが早い。
「勿論よ」
俺は二枚目の羊皮紙を取り出した。
「逆に、香辛料の暴落に怯えている売り手(船主)には、こっちの『プット・オプション(売却選択権)』を売るわ。来月末、市場価格がどれだけ暴落していようが、我が商会が『袋あたり銀貨50枚』で買い取ってあげる権利よ。価格は同じく銀貨5枚」
「なっ……! 暴落しても50枚で買い取るだと!?」
トマスが横から悲鳴を上げたが、俺は一瞥して黙らせた。
「そうよ。船主は銀貨5枚を払うだけで、価格暴落による破産を回避できる。そしてね、ハンス。ここからが真骨頂よ。この二枚の権利書——購入した本人が使う必要はないの」
「……あ?」
「来月末の満期が来るまでの間、この羊皮紙そのものを他の商人に転売して構わないわ。香辛料が暴騰しそうだと噂が流れれば、コール券の価値は銀貨5枚から10枚、20
枚へと跳ね上がる。逆に暴落の噂が広まれば、プット券の価値が高騰する。——つまり、実物の香辛料を一袋も動かすことなく、『リスクの変動』そのものを商品として売買できるのよ」
酒場の一角に、奇妙な静寂が訪れた。
ハンスの喉仏が、ゴクリと音を立てて動く。
彼がいま触れかけているのは、人類が何百年もの歳月をかけて編み出した知識の結晶——金融派生商品の概念だ。実物資産を持たない者が、計算とリスク設計だけで市場を支配する現代数学の結晶である。
「……恐ろしい考えだな」
ハンスが煙草を揉み消し、深く吐息をついた。
「物を持たねえでお前さんは、商人たちの『恐怖』と『欲』だけを右から左へ動かして金を巻き上げようって寸法か。……だがな、アリア」
ハンスの目が、冷たく光った。
「致命的な穴があるぞ」
「へえ? 言ってみなさい」
「俺らにだって情報は入ってるんだ。お前さんのローゼンバーグ商会は、昨日倒産しかけた弱小だろう。もし来月、香辛料が百枚に暴騰して俺がこのコール券を使おうとした時……お前さんが金を払えずに飛んだらどうする? この羊皮紙はただの落書きになる。『ローゼンバーグ商会の信用』がゼロなんだよ!」
「ひぃぃっ……!」
トマスが頭を抱えて縮こまる。
ごもっとも。極めて正論だ。
金融において、最大のコストであり障壁となるもの。
それこそが『信用リスク』だ。
いくら巧妙なオプションを作ったところで、発行体である俺たちが履行能力を失って破綻すれば、すべての契約は紙くずと化す。
「誰もそんなリスクなんて背負いたくない。誰がそんな損失を引き受けるってんだ?」
ハンスの追求に、俺は待ってましたとばかりに不敵に微笑んで見せた。
アリアの整った容姿が、漆黒の悪意を帯びて華やかに歪む。
「……ふふ、誰も『損失を引き受けろ』なんて言ってないわ。だからこそ、この三枚目の紙——『信用連動債(CLN:クレジット・リンク・ノート)』を売り出すのよ」
俺は懐から、赤い蝋封が押された三枚目の契約書を取り出した。
「ハンス、現実的に考えてみなさい。香辛料船団が『全滅(120枚に暴騰)』したり『無傷(20枚に暴落)』になる可能性なんて、実はごくわずかでしょ? 一番確率が高いのは……『海賊の被害をほどほどに受け、価格が70枚前後で大して変わらない』という中間シナリオよ」
ハンスがハッとして眉をひそめた。
「……まあ、確かにそうだ。船が数隻沈んだとしても、全体としちゃ小幅な値動きで終わる確率が一番高い」
「そう! もし暴落も暴騰も起こらず、香辛料の価格が50枚から90枚の範囲内に収まったらどうなると思う? コール券を買った者も、プット券を買った者も権利を行使しないわ。つまり、最初に買い手たちが払った権利代や清算金が、そのまま我がローゼンバーグ商会の利益として丸々手元に残るってわけ」
俺は三枚目の羊皮紙をテーブルの上に叩きつけた。
「この信用連動債(CLN)はね、『ローゼンバーグ商会が破綻せず、すべての権利行使期限が終了した時点で商会が得た最終利益』を基準にして、その利益の一部を投資者に配当として還元する投資券よ!」
「投資券……だと!?」
「そう! もし万が一、我が商会が期日までに破綻すれば、出資したお金は返還されず、失われるリスクがある……。けれど一番確率が高い『ほどほどシナリオ』になれば、ローゼンバーグ商会は倒産せず、投資家は膨らんだ最終利益に応じた高配当を手にできる!」
ハンスの目が丸くなった。
「……なるほど、商会の『信用力』そのものを商品にして資金を集めるわけか! 集めた出資金はそのまま、あんたの商会の金庫に『準備金』として積み上がり、万が一の時の支払い能力を補強する」
「正解よ! このCLNを買う投資家たちが集まれば集まるほど、我が商会の保証金は積み上がり、コール券やプット券の『信用』はより強固になる! 信用が高まれば、さらにコール券やプット券といったオプション商品の売れゆきは伸びる!」
価格の上昇に備えるコール。
価格の下落に備えるプット。
そして、「大した価格変動は起きず、全取引終了時に商会に残る最終利益」に賭けて配当を得る信用連動債(CLN)。
「これですべてのピースが揃ったわ。価格の暴騰に備える者、あるいは暴落に備える者、そして最も手堅い『現状維持による商会の最終利益』を狙う出資者——あらゆる人間がこの市場に参加し、莫大な富が我が商会に流れ込むわ!」
人々の恐怖を金に換える商売。
だからこそ、金融業は最も稼げる商売であり、技術の進歩に左右されないない普遍的な商売となるのだ。
ハンスはしばらくの間、広がられた三枚の羊皮紙を、まるで悪魔の呪符でも見るかのような目で見つめていた。
やがて、彼は腹の底から絞り出すような低い声で笑い始めた。
「ハ……ハハハ! 狂ってる! 狂ってるぜアンタ! アンタの頭の中には悪魔でも棲みついてるのか!?」
「最高の褒め言葉として受け取っておくわ」
俺はフッと微笑み、ポニーテールを揺らして立ち上がった。
「どうかしら、ハンス。あなた、この金融商品の『一次代理店』として、港の商人たちに売り捌いてみない? 手数料の5%を、アンタの取り分としてあげるわ」
ハンスは荒々しく髪を掻きむしり、最後に力強くテーブルを叩いた。
「乗りかけた船だ! その悪魔の紙切れ、俺が港のタヌキどもに呑ませてやるよ!」
交渉成立だ。
店を出ると、ラグラドの港に広がる潮風が、アリアの赤髪を優しく揺らした。
手元には、まだ一銭の現金もない。
だが、俺の頭の中には、この歪んだ世界を支配するための数式が完璧に組み上がっていた。
「さあ……見せてあげるわ。実物なき市場が、どれほど苛烈に市場を呑み込んでいくかをね」
異世界の交易都市に、現代資本主義の最も苛烈なモンスター——デリバティブ市場の産声が響いた。




