第五話 数学者の月給
一夜明け、爽やかな朝の光が港街ラグラドに降り注いでいた。
しかし、ローゼンバーグ商会の執務室に流れる空気は、重く冷ややかだった。
俺は使い古された木製デスクの上に厚手の羊皮紙で綴じられた大帳簿を広げ、指先をその上に滑らせる。アリアの持っていた記憶と知識を照らし合わせながら、ソロバンに似た計算盤をカチカチと叩く。
その数字を追えば追うほど、俺の表情は引きつっていった。
「……ひどいわね。想像を絶する不健全経営」
「は、はい……すみません、アリア様……」
デスクの脇で小さくなっているのは、番頭のトマスだ。とはいえ彼が悪いわけではない。前の商会主——つまりアリアの亡き父親が、典型的な『人が良すぎる典型的な町商人』だったのだ。
俺は手帳にペンで数字を書き殴りながら、頭の中で瞬時に貸借対照表を構築した。
「現在の流動資産は、昨日カルロスとの大立ち回りで手元に残った金貨と雑多な通貨を合わせて、およそ金貨25枚分。対して、来月中に支払期日が来る短期債務が……穀物ギルドへの買掛金、店舗の借地料、税金等々で合計金貨40枚。——完全な債務超過よ」
「うぐっ……! か、完成したばかりの奇跡の返済劇の翌朝に、もう倒産危機ですな……!」
トマスが頭を抱えて呻く。
「それだけじゃないわ。人件費の項目を見て呆れたのよ。現在、このローゼンバーグ商会に所属している従業員は……トマス、アンタ一人だけ?」
「ええ……。お父上の代からのベテラン従業員たちは、ゴルドン商会からの嫌がらせと資金繰りの悪化に耐えかねて、先月までに全員退職金代わりの商品を持っていなくなりました……」
人材、皆無。
財務体質、極めて脆弱。
さらに最悪なのは、商業ギルドとのコネクションが完全に途絶えていることだ。
「倉庫に残っている在庫は……湿気った羊毛の束が数箱と、塩漬けの魚が少し。ギルドの参入ライセンスを失っているから、港にやってくる大型船から優先的に優良な商品を買い付ける『一次卸売』の権利もウチにはない。……ねえトマス、この状況で普通に『物』を仕入れて『物』を売る商売をやったら、どうなると思う?」
「え……っと、薄利多売でコツコツと利益を出して、利益を積み上げていく……でしょうか?」
「バカ言わないで」
俺は冷ややかに鼻で笑った。
「資金力も人手も信用もない弱小が、巨大な資本を持つゴルドン商会と同じ土俵で『実物商品の売買』をやったら、仕入れ値の段階で買い叩かれ、販売価格で下潜りをされて一瞬で蒸発するわ。真綿で首を絞められるように、手元の金貨25枚がジワジワと消えて破綻するだけよ」
「ひぃっ! ではど、どうすればいいんです!? また昨日のように両替商を駆け回って金を増やしますか!?」
「甘いわね。裁定取引は、市場が歪みに気づいていない一瞬しか使えない不可逆な手法よ。今日の街の両替看板を見に行ってみなさい。どこもレートを書き換えて、金貨・銀貨・青銅貨の周回で利益が出ないように売買差額を大きくしているはずだから」
昨日の市場破壊は、一度きりの奇跡にすぎない。
市場に存在するバグは、一度気づかれると即座に修正されるのだ。
「では……もう八方塞がりじゃありませんか……!」
絶望に打ちひしがれるトマスを余所に、俺は椅子の背もたれに深く体重をかけ、天井を見上げた。赤毛のポニーテールがサラリと肩からこぼれ落ちる。
(……『物』を仕入れる金もない。『人』もいない。『信用』もない。……なら、何を売ればいい?)
前世の記憶が、脳裏を駆け巡る。
マンハッタン、5番街の北に位置するウォール街。
巨大なガラス張りのビル群。最新のクアッドコア・サーバーがうなりを上げ、1秒間に何百万回ものアルゴリズム取引が交わされる金融業界の聖地。
あそこには、商品を入れる巨大な倉庫もなければ、積み上げられた金やダイヤモンドの山も、原油の入ったドラム缶もない。
それなのになぜ、ウォール・ストリートは現代資本主義の象徴と呼ばれるのか?
それは、彼らが売買していたのが『物』ではないからだ。
彼らが取引していたのは——『未来の不確実性』と『時間』だ。
(……思い出せ、「俺」がどんな世界で生きていたかを)
大学で応用数学の博士号を取得し、ウォール街の投資銀行に拾われたあの頃。
新卒のクオンツ(金融工学専門家)に提示された基本給は、ベースだけで月給1万5000ドル(日本円にして約200万円)。ボーナスを含めれば初年度で数千万円に達する。
なぜ、ただパソコンの前で微分方程式を解き、確率過程のコードを書くだけの青二才に、それほどの高給が支払われるのか?
理由は単純だ。
実物経済の人間たちが喉から手が出るほど欲しい『未来の確定』を作り出す数学の手法を、クオンツだけが作り出せるからだ。
船が嵐で沈むかもしれない。
来年の小麦が大不作で価格が跳ね上がるかもしれない。
戦争で為替が暴落するかもしれない。
世界は常に「不確定な恐怖」で満ちている。
クオンツとは、その抽象的な恐怖に高度な数学を用いて『価格』をつけ、金融商品としてパッケージングし、リスクを切り売りする悪魔の錬金術師なのだ。
(実物がない? 結構じゃないか)
俺は不敵に口角を上げた。アリアの整った容姿が、凶悪なまでの自信に彩られる。
「物がないなら、概念を売ればいいのよ」
「が……概念、ですか……? アリア様、何を言っておられるのかさっぱり……」
「トマス。この港街ラグラドで、今一番『未来の恐怖』に怯えている商人たちは誰かしら?」
トマスは首を傾げ、記憶を辿るように指を折った。
「ええと……それなら、北海からの『香辛料船団』を待っている大商人たちでしょうか。北海で海賊の活動が活発化しているという話がありましてな。もし多くの船が沈んでいれば、香辛料の価格は跳ね上がります。しかし、すでに多少のリスクは織り込み済み……海賊が全く出ておらず、船団すべてが無事に到着すれば価格は暴落する……。商人たちは生きた心地がしないと噂になっております」
「……完璧ね」
俺はパンッと勢いよく手を叩き、椅子から立ち上がった。
「それよ。それこそが、私たちが取り扱うべき最初の『商品』だわ!」
「は、はい!? ですがアリア様、ウチには香辛料を買い付ける資金なんて一金貨も……」
「誰が香辛料を買うと言ったの?」
俺はトマスの肩をポンと叩き、美しい翠眼をキラリと輝かせた。
「私たちが売るのは『香辛料』じゃない。——『香辛料の価格が変動した時に、一定の価格で売買できる権利』よ!」
「け、権利……!?」
「そう。現代金融の華——デリバティブ取引の開幕よ!」
実物を持たない弱小商会が、巨大資本を数学で屠るための反撃。
ウォール街の知恵が、異世界の歪んだ市場へ本格的に侵入をしようとしていた。




