第四話 ヴェニスの天秤
日没の鐘が街に響き渡るのと同時に、俺はゴルドン商会の執務室のドアを威勢よく蹴り開けた。
「ただいま、カルロス! 約束通り戻ったわよ!」
デスクの背後でニヤニヤと下劣な笑みを浮かべていたカルロスが、あからさまに目を丸くした。
「な……!? てめぇ、本当に戻ってきやがったのか……!?」
「当たり前でしょう。約束は守る主義なの」
俺は手持ちの革袋を持ち上げ、デスクの上にドサリと叩きつけた。
重厚な金属音が響き、口からキラキラとした黄金の輝きがあふれ出す。
「約束の現物……帝国金貨100枚よ!」
「な、なんだとぉっ!?」
カルロスが弾かれたように立ち上がり、金貨の袋に飛びついた。
指を震わせながら枚数を数え直す彼の顔から、みるみるうちに余裕が消えていく。
「な、なぜだ……!? わずか三時間で、金貨50枚を100枚に増やしたというのか!? どんなイカサマを使った!?」
「イカサマじゃないわ。純粋な数学と市場の歪みを利用しただけ。……でも、次にアンタが言うことは分かってるわよ」
俺は腰に手を当て、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「返済期日である日没までに、元々の借金100枚と、追加融資50枚+利息10枚……合計『160枚相当』を返す約束だったわね。現物の金貨100枚じゃ、まだ60枚足りない……そう言いたいんでしょ?」
「ふ、フン……! 分かっているじゃねえか!」
カルロスは必死に動揺を隠し、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべ直した。
「そうだ! 100枚じゃ足りねえ! あと金貨60枚が足りない以上、契約違反だ! お前の身体も商会も、俺の——」
「甘いわね、カルロス」
俺はポケットから、数枚の薄汚れた羊皮紙を取り出し、カルロスの顔前にひらひらと突きつけた。
「足りない60枚分は、これで相殺するわ」
「あ……? なんだその紙くずは……」
カルロスが怪訝そうに羊皮紙をひったくり、そこに記された署名と印章を見た瞬間、顔面を蒼白に染めた。
「こ、これは……うちが発行した『約束手形』……!? なぜお前がこれを持っている!?」
「種銭を周回させている途中で気づいたのよ」
俺はポニーテールを指先で弄りながら、淡々と種明かしを始めた。
「私が街中の両替商から大量の現物金貨を吸い上げたせいで、今日の夕方の両替市場は極端な『金貨不足』に陥ったの。現物金貨が手に入らなくなった他の商人たちはパニックを起こし、手持ちの手形を投げ売りし始めた。……その中に、資金繰りに焦ったアンタの商会が発行した『金貨60枚分の手形』が混ざっていたのよ」
「な……なんだと……!?」
「そこで私は余った金貨47枚を使って、叩き売りされていたアンタの手形を買い取ったってわけ。額面通り、金貨60枚の価値がある手形よ」
俺は両手を広げ、完璧なロジックを叩きつけた。
「現物金貨100枚。そして、アンタたちが金貨60枚を支払わなきゃいけない『約束手形』。合わせればピッタリ『160枚分』の価値の償還よ。文句あるかしら?」
「へ、屁理屈だろそんなのっ!!」
カルロスは顔を真っ赤にして卓上を殴りつけた。
「160『枚』と言ったら普通は現物の金貨の枚数だ! 手形と合わせて160だとぬかす気か!? 俺は『金貨160枚』と言ったはずだぞ!」
(あーあ、始まった。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』かよ。肉一ポンドから血を流さずに切り取れって言われたポーシャの気分だな)
俺は心の中で呆れつつ、アリアの快活な笑顔を崩さずに一歩踏み込んだ。
「いいえ、よく思い出しなさいカルロス。確かに、最初に元の借金を返す約束をしたとき、私は『きっちり金貨100枚、用意してあげる』と言ったわ。でも、追加で50枚借りるとき……私はなんて言ったかしら?」
『借金の金貨100枚と合わせて『合計160枚相当』にして返すわ』
「——私はただの『160枚』としか言っていないのよ。金貨160枚分の価値を返すと言ったの、契約書の文言をよく読み返しなさい! 取引の基本よ、おバカさん!」
「〜〜〜〜っ!?」
カルロスは言葉を詰まらせ、ぐうの音も出ずに絶句した。
借金を取り立て、路頭に迷った弱小商会の看板娘を思い通りに手に入れるはずだった。
それがどうだ。数時間前まで海に落っこちて溺れかけていたはずの少女が、見たこともないロジックと市場の仕組みを逆手に取り、自分を完璧に打ち負かしている。
「……っ」
夕日を背に浴び、汗に濡れた赤毛のポニーテールを揺らしながら、勝ち誇ったように翠眼を輝かせるアリア——すなわち俺を見て、カルロスがゴクリと唾を呑み込んだ。
その頬が、怒りとは明らかに違う赤みで染まっていく。
(……ん? なんだこの視線)
カルロスの目が、俺の顔、首筋、そして大きく息を吐く胸元へと吸い寄せられている。
その瞳に浮かんでいるのは、侮蔑や怒りではなく——明らかな「熱」と「執着」だった。
(えっ、なにこれ。嫌な予感がするんだけど……)
「あ、アリア……お前……いつからそんな……」
カルロスが掠れた声で呟き、夢遊病者のように手を伸ばしてくる。
「っ! 触らないで!」
俺は咄嗟にその手をパシッと叩き落とした。
「貸し借りなし! これでローゼンバーグ商会の借金は完済よ! 二度と私の前に不躾なツラを見せないで頂戴!」
「あ……待て、アリア……!」
未練がましく手を伸ばすカルロスと、開いた口が塞がらない用心棒たちを置き去りにして、俺はトマスの腕を引っ張って執務室を飛び出した。
◇
夕闇が包み込む街の街道を走り抜け、ようやく自分の商会屋敷に戻ってきた頃には、月が空に昇っていた。
「はぁー……疲れた……死ぬかと思った……」
玄関のソファに深く腰掛け、俺はぐったりと天井を見上げた。
喉がカラカラだ。アリアの体力が限界を迎えている。
「あ、アリア様……! 本当に、本当に凄いですぞ……! 借金を完済し、商会を守り切るなんて……!」
トマスが涙をボロボロとこぼしながら、膝をついて拝んできた。
「はいはい、分かったからトマス、お水を一杯頂戴」
「はいっ! ただいま!」
トマスが奥へ走っていくのを見送りながら、俺は自分の胸に手を当てた。
ドクドクと、激しく心臓が脈打っている。
(ふぅ……運も味方したとはいえ、なんとか第一関門は突破したけど……)
脳裏に浮かんだのは、去り際のカルロスのあの顔だ。
(……カルロスの奴、絶対に俺に惚れてるよなあれ。くそ、男に惚れられても一ミリも嬉しくねぇんだよバカ野郎!)
思わず頭を抱えた。
男の自我を持ったまま、美少女の身体でほかの男から熱視線を向けられる恐怖。
ラノベで読んでいる時はコメディだったが、当事者になるとただのホラーだ。
今回はなんとか乗り切ったが、こんなバグはすぐに修正される。
明日になれば両替商たちもレートを改定し、この方法での稼ぎはできなくなるだろう。
「……ま、いいか」
俺は濡れたポニーテールを後ろに放り投げ、クスリと笑った。
中央銀行も、統一金利も、近代的な証券取引所すら存在しないこの広大な異世界市場。
バグが一つ塞がれたところで、構造的な欠陥――もといチャンスは無限に転がっている。
「私を舐めないでよね。……この世界の経済、私が根底から書き換えてあげるわ!」
月光が照らす窓辺で、赤毛の女商人は不敵に微笑んだ。




