第七話 無から涌き出る金
夕暮れの港街ラグラドに、鐘の音が響き渡った。
北海香辛料船団の第一陣が、水平線の向こうから姿を現したのだ。全三十隻のうち、港に辿り着いたのは二十隻。残りの十隻は、途中の海域で海賊の襲撃に遭ったか、嵐によって沈没したらしい。
全滅でもなければ、無傷でもない。
まさしく俺が予想した「もっとも確率の高い中間シナリオ」だった。
香辛料の市場価格は一時的に小幅な揺れを見せたものの、最終的に袋あたり「銀貨68枚」という、当初の相場(70枚)とほとんど変わらない水準に落ち着いた。
そして、運命の満期日が訪れた。
「……信じられねえ」
ローゼンバーグ商会の奥の金庫室。
ハンスが掠れた声で呟き、積み上げられた木箱に手を伸ばした。
隣ではトマスが青ざめた顔で木箱の蓋を押し開ける。
箱の中には、夕日を受けて怪しく輝く金貨と銀貨の山が、目眩がするほどぎっしりと詰まっていた。
「コール券(買付選択権)の行使価格は90枚……。市場価格は68枚だから、誰も90枚で買う権利を使わないし、プット券(売却選択権)の行使価格50枚で売りつける奴もいない……つまり」
トマスが震える指で羊皮紙の計算書を指さした。
「コール券も、プット券も……今回売り出したオプションの権利は、一つ残らず行使されずに……期日を迎え、すべて紙くずとなって消滅しました」
最初、ハンスとトマスはこの金融取引の仕組みを理解した時、にんまりと笑っていた。『リスクを人に押し付けて、手数料や権利代を掠め取る』という構図までは、彼らでも直感的に呑み込めていたからだ。
しかし、すべての清算が完了した今、目の前にある異常な量の現金を目にして、二人はついに底知れぬ恐怖を覚えているようだった。
「おい、嬢ちゃん……」
ハンスが力なく首を振る。
「おかしいだろ、こんなの……。香辛料は俺たちの手元で一袋も動いちゃいねえ。船主に売り手にも、もちろん買い手にも……誰一人として商品を受け取っても渡してもいねえんだぞ? なのに、何でここに山のような金貨があるんだ……!? この金はどこから湧いて出たんだよ!?」
現物取引の世界で生きてきた彼らにとって、商品は一切移動していないのに山のような利益だけが発生する現象は、奇跡などではなく、悪魔の錬金術にしか見えなかったようだ。
「ハンス、トマス。怯える必要はないわ」
俺は椅子から立ち上がり、金貨の山へ歩み寄ると、枚数を確かめるように一枚を指先で弾いた。カチリと高い金属音が部屋に響く。
「どこからこの金が湧いて出たのか、不思議かしら? 答えは簡単よ。市場にいた全員の『恐怖』から回収したの」
「恐怖?」
「そうよ。この数週間、市場を支配していたのは『香辛料の価格が暴騰して破産するかもしれない』『暴落して首が回らなくなるかもしれない』という恐怖。私たちはその恐怖を買い取り、小分けにしてリスクを許容できる人々に売った。……言ってみれば、恐怖にあおられた商人たちが、自らの安心のために支払った『税金』のようなものね」
トマスが息を呑んだ。
「税金……。では私たちは商人たちを恐怖で脅して、実体のない紙切れで金を騙し取ったということですか……!?」
「いいえ、絶対に違うわ」
俺はきっぱりと否定した。
「騙した人間なんて一人もいないわ。考えてみなさい。コール券を買った買い手は『暴騰しても六十枚で買える保証』、そしてプット券を買った船主は『暴落しても四十枚で売れる保証』のおかげで、それぞれこの一ヶ月間ぐっすり眠れたはずよ。そしてCLN(信用連動債)を買った出資者は、商会が破綻しなかったことで約束通りの高配当を手に入れたわ。……この中で誰か一人でも、不利益を被った人間がいるかしら?」
ハンスとトマスは顔を見合わせた。
誰も損をしていない。全員が「必要な対価」を払い、望む安心や利益を手に入れたのだ。彼らは自分が騙されたなんて微塵も思っていない。むしろ「ローゼンバーグ商会のおかげで無事にリスクをカバーできた」と感謝すらしている。
そしてそれは気休めなどではなく、客観的な事実だ。
リスクという目に見えない概念を可視化し、それを小分けにして市場で売買する。
その仲介手数料たるリスク・プレミアムが、ここにある金貨の正体だ。
俺は窓辺へ歩み寄り、港を行き交う船や人々を見下ろした。
「ハンス。商人にも格があるのよ」
「格?」
「ええ。安く仕入れて高く売る。モノの価格の差額だけで儲けようとする商人は二流よ。現物がある限り、彼らの利益には常に限界がある」
俺は振り返り、二人に不敵な笑みを向けた。
「一流の商人はね……価格変動の恐怖と歓喜そのものを商品にする。市場を熱狂させ、そこから無限の利益を吸い上げる。そして一度でもその味を占めた市場は、二度と元の現物取引だけの世界には戻れないわ。より複雑で、より巨大な金融商品を求め続けることになる」
実体経済という大地の上に、実体を持たない砂上の楼閣を築き上げる。
恐怖を商品に変え、変動を利益に変え、取引そのものを自己目的化させていく。
これこそが現代資本主義の神髄であり、金融が『虚業』と呼ばれる所以だ。
酒場の隅で羊皮紙に数式を書いていた男の記憶が、アリアとしての胸の奥で静かに脈動する。前世のウォール街で俺たちがやっていたのは、まさしくこの錬金術だった。現物の裏付けを超えて膨れ上がる金融資産。実体経済の何十倍にも膨れ上がったデリバティブ市場。
ハンスはゴクリと唾を呑み込み、積み上がった金貨の山と、俺の顔を交互に見つめた。
「……恐ろしいお人だ。お前さんは、この街の商人ども全員を、手のひらの上で踊らせてやがる」
「まだ踊りは始まったばかりよ、ハンス」
俺は赤髪のポニーテールを揺らし、窓の外の交易都市を見据えた。
「この金庫の金は、次の市場を飲み込むためのただの『保証金』に過ぎないわ。……さあ、次はどんな『恐怖』を買い取ってあげようかしら?」
異世界の交易都市に、実体なき金融の化物が芽吹き始めていた。




