第二話 三角裁定取引
「アリアお嬢様、正気ですか!? 日没まであと五時間もありませんぞ!」
「騒がないでトマス。今は一分一秒が貴重なの!」
俺はポニーテールを跳ねさせながら、港町の石畳を激しく蹴った。
この世界、この都市の商取引について俺の頭にあるのは、先ほど亡くなったアリアの記憶から引っ張り出した曖昧な知識だけだ。だが、日没までに金貨100枚という莫大な借金を返すには、地道にコツコツ現物取引なんてやっている暇はない。
幸い、ここは巨大な海上交易都市・ラグラド。街には異国の船がひっきりなしに出入りし、何百、何千という金貨が飛び交っている。金貨100枚というキャッシュ自体はこの街のどこかに実在しているはずなのだ。
(問題は、どうやってそのキャッシュを短時間で俺の懐に引き寄せるか……!)
前近代の市場で、短時間で爆発的な利益を生む方法。
それは実物取引ではなく、そこで流通する貨幣そのものの両替——為替取引である。
「トマス、走りながら答えて! この街で流通している主な貨幣は何種類あるの!?」
俺の後ろを息を切らせてついてくるトマスが、必死に声を張り上げた。
「さ、三種類です! この地を統べる帝国の『帝国金貨』、南方の貿易都市同盟が発行する『海洋銀貨』、そしてラグラドの都市参事会が発行する『青銅貨』です!」
「それぞれの両替レートは誰が決めているの!?」
「誰というわけではありません! 区画ごとにいる『両替商』たちが、入港した船や自分たちの手持ちの在庫を見て、それぞれ勝手に相場を決めています!」
(ビンゴ……!)
俺の脳内で、クオンツとしての計算回路が高速回転を始めた。
中央銀行も為替市場も存在せず、電信も電話もない前近代の交易都市。
そんな社会の情報伝達の速度は「人間が歩く速度」に依存する。
商人たちは、自分の経験と勘でバラバラに交換比率を設定しているはずだ。
つまり——両替所間での「価格のズレ」が必ず発生している。
「トマス、街の両替区画を片っ端から回るわよ! 書き物を出して!」
「ええっ、両替商の看板を見るだけでお金が手に入るんですか!?」
「いいから黙ってメモを取りなさい!」
◇
そこからの二時間、俺は文字通り街中を走り回った。
東港の港町エリア、中央の大広場、北側の高級商店街。
汗で赤毛を首筋に貼り付けながら、各区画に点在する両替商の店頭に掲げられた交換比率を片っ端から手帳に書き写していく。
これに気取った分析など要らない。ただ愚直に泥臭く、足でデータを集めるしかない。
そして三つ目の区画を回ったところで、俺の手帳の上である「バグ」が浮かび上がった。
【東港の両替商A】
帝国金貨 1枚 = 海洋銀貨 12枚
【中央広場の両替商B】
海洋銀貨 1枚 = 青銅貨 25枚
【北街の両替商C】
青銅貨 210枚 = 帝国金貨 1枚
これらはすべて、取引手数料を引いた後の数字。
その数字を見つめた瞬間、俺の全身に鳥肌が立った。
「……勝った」
「え? ア、アリア様……?」
「トマス、これを見て。これが市場の歪みを利用した利益獲得……『三角裁定取引』よ!」
理解できていないトマスに、俺は手帳を指差ししながら早口で捲し立てた。
「いい? 金貨1枚を【両替商A】で銀貨12枚に換える。その銀貨12枚を【両替商B】で青銅貨300枚に換える。そして、その青銅貨300枚を【両替商C】に持っていくと……青銅貨210枚で金貨1枚と交換できるから、手元には『金貨1枚』と『青銅貨90枚』が残るの!」
「な……お、お金が増えて……!?」
「そう! ただ街を一周して両替を繰り返すだけで、元手にした金貨1枚当たり青銅貨90枚分の純利益が発生するのよ! 異国船の入港ラッシュで東港の銀貨がダブついてるのに、北街の店のレートの更新が遅れているんだわ! 情報の遅れが生んだ完全な『市場の歪み』よ!」
船の入港によって一時的に発生した、ノーリスクで無制限に金を増やせるループ。
現代の電子取引なら1ミリ秒でAIに潰されるような初歩的なバグが、この街には野放しで転がっていたのだ。
「す、凄いですアリア様! これで100枚の金貨を作れば……!」
「……いや。ううん、ダメよ。致命的な問題があるわ」
俺はギリッと歯噛みした。
この無限ループを実行するための「まとまった量の金貨」――
つまるところ種銭が、今のローゼンバーグ商会にはないのだ。
トマスに聞いても、案の定手元にあるのは数十枚の銀貨のみ。
こんな微小な元手でちまちま周回していたら、日没までに金貨100枚なんて到底届かない。
何より、それほど頻回の両替を行えば両替商も異変に気づき、先にレートを修正してしまう。
この勝負に勝つためにはドカンとまとまった種銭を投入し、短時間でカタを付けるしかない。
「元手……まとまった種銭が最低でも金貨50枚は必要よ……! どこかに即金で金を貸してくれるような酔狂なバカは……」
そこまで口にして、俺はハッと息をのんだ。
バカなら、目と鼻の先に一匹転がってるじゃないか。
◇
「……ハァ!? 種銭を貸せだぁ!?」
ゴルドン商会の豪華な執務室。
革張りのソファに深々と腰掛けたカルロスが、お茶を吹き出しそうになりながら俺を睨みつけた。
「そうよ。金貨50枚、今すぐ私に貸しなさい!」
俺はポニーテールを揺らし、胸を張ってカルロスのデスクに両手を突いた。
後ろでトマスは「ひぃぃっ」と泡を吹いて倒れそうになっている。
「てめぇ、狂ったかアリア! 日没までに100枚返せと言われている奴が、なんでさらに50枚借りようとしてんだよ!」
「怖気づいたの、カルロス? あなただって商人でしょう?」
俺はあえて挑発するように、不敵な笑みを浮かべて見下ろした。
アリアの記憶にあるカルロスの性格——プライドが高く、粗暴で、自分を誇示するのが大好きな男。
だからこそあえて挑発し、彼のプライドを煽る。
「確かに私は、日没までに金貨100枚を用意すると言ったわ。でも利益を最大化するためには、一時的なつなぎ融資が必要なの。もし金貨50枚を貸してくれれば……日没までに返還する額を、借金の金貨100枚と合わせて『合計160枚相当』にして返すわ」
「ひゃ、160枚……!?」
カルロスの目の色が即座に変わった。
金貨50枚が60枚に。わずか数時間で、金貨10枚――20%という爆利が得られる計算だ。
「アリア様ぁぁぁ!? 何を仰っているのですかー!?」
トマスが悲鳴をあげるのを、俺は手で制した。
リスクを極限まで取る。
クオンツの仕事の本質は「適切なリスクのテイクと流動性の制御」だ。
市場そのものに歪みが存在することを確認した以上、勝負の勝率は100%。
なら、自分の身体だろうが何だろうが、レバレッジの担保として叩きつけるまで!
「……フン。ハッタリだな。どうせその50枚を持って街から逃げる気だろ?」
「逃げるのがそんなに心配なら、あんたの抱えている用心棒を二人、私に密着して張り付かせればいいじゃない。私が両替区画以外の場所……たとえば街の門に向かった瞬間、力づくで捕まえて連れ去ればいいわ」
カルロスは肥満した顎をさすり、下劣な視線で俺の全身を舐め回した。
「……いいだろう。俺だって商人だ。儲けの機会をみすみす見逃す手はない。その勝負、乗ったぜ」
カルロスが合図を出すと、部下がずっしりと重い革袋をデスクに置いた。
ジャラリ、と金貨の重厚な金属音が響く。
「金貨50枚だ。おい、お前ら! この女から一秒たりとも目を離すなよ。日没になった瞬間、あるいはこの街から逃げようとした瞬間、こいつの髪でもなんでも掴んで、俺のベッドへぶち込め!」
「へいっ!」
ガタイのいい二人の用心棒が俺の左右に立ち、逃げ場を塞ぐ。
俺はズシリと重い金貨の袋を抱え直すと、ニヤリと口角を上げた。
「毎度あり、カルロス。——日没までに、利息をたっぷり乗せて返しに来てあげるわ!」
残り時間、あと二時間半。
男たちの視線とタイムリミットの圧迫感の中、俺の「市場破壊」が始まった。




