第一話 赤毛の商人
「——お嬢様、息を……っ! お願いです、目を開けてください……!」
誰かが耳元で叫んでいる。
喉の奥が焼き切れるように熱い。
激しい咳き込みとともに肺に空気を送り込むと、潮の匂いと腐った木材の臭いが一気に鼻腔を刺した。
「はぐ……っ、げほっ! かはっ……!」
(……待て。俺は、死んだはずだ)
記憶の最後のフレームは、午前三時のウォール街。
コーヒーの出汁殻みたいな匂いが充満するオフィスで、俺はブラック・ショールズ方程式の変形に没頭していた。
32歳、独身、親はすでに他界して天涯孤独な俺の趣味は、日本のラノベを読むことと、証券市場の歪みを見つけて利益を出すこと。
そんな俺は仕事の最中、心臓が激しく脈打ち、視界が急激に暗転した——典型的な過労死だ。
なのに、なぜ俺は冷たい石畳の上で倒れ込んでいる?
「神様……ありがとうございます……! アリア様が、アリア様がお戻りになられた……!」
老人の泣き声。
体を起こそうとして、強烈な違和感に襲われた。
重心が低い。視線が低い。そして、胸元に感じる見たこともない重み。
慌てて自分の手を見る。
白く、細く、ペンダコ一つない華奢な指先。
近くにあった水たまりを覗き込んだ俺は、その場で固まった。
「……は?」
水面に映っていたのは、濡れて頬に張り付いた鮮やかな赤毛。
そして透き通るような翠眼、そして高く結い上げられたポニーテール。
絵に描いたような、いや、ラノベの挿絵から飛び出してきたような美少女だった。
(いやいやいや。え、なにこれ。めちゃくちゃ可愛いんだけど。ポニテ揺れてるし。というかこれ、俺なのか? 水面に反射した自分の顔に見惚れるとか、どんな自意識過剰だよ……じゃなくて!)
混乱で脳の処理速度がオーバーフローを起こしかけたその瞬間、頭の奥底で何かが弾けた。
——アリア・ローゼンバーグ。18歳。海上交易都市ラグラドの弱小商会『ローゼンバーグ商会』の代表。
——急死した父の跡を継ぐも、債務の返済に追い詰められ、ストレスと疲労で海に転落して溺死。
強烈な濁流となって流れ込んでくる、見知らぬ少女の記憶。
それは俺の自我と強引に混ざり合い、思考の配線を無理やり書き換えていく。
(ぐっ……頭が……! なんだこれ、記憶が……馴染む……?)
『ちょっとアンタ、いつまでボサッとしてるのよ! 商会が潰れそうなの分かってんの!?』
脳内で、亡くなった元の持ち主——アリアの残滓が俺に怒鳴り散らしてくる。
俺の無骨な男の精神に対し、この肉体と記憶が激しい拒絶反応を起こしているのだ。
(くそっ、口調まで引っ張られる……! 男っぽく喋ろうとすると、舌が裏返りそうだ……!)
「あ、あの……アリア様。大丈夫ですか……?」
心配そうに覗き込んでくるのは、古参の番頭と思われる老爺・トマスだ。
「……ええ、大丈夫よ! ちょっと海のお水を飲んじゃって、頭が混乱してただけだから!」
次に口から飛び出したのは、自分でも引くほどのハキハキとした若い女性の口調だった。
(よし、これなら違和感はないはず……って、俺の男の尊厳どこ行った!?)
パニックになりそうな頭を強引に冷やす。
状況を整理しろ。クオンツの仕事の基本は、冷徹な現状分析だ。
俺は過労死して、異世界の弱小商会の女商人(赤毛翠眼ポニテ美少女)にTS転生した。
元の主は既に死亡しており、俺がその身体と記憶を引き継いだ。
異世界ものの「あるある」な状況だが、チート能力やステータス画面の類は一切見当たらない。
この都市の経済システム、通貨基準、利率——一切のパラメータが不明。
「……つまり、なにもわからないと」
どうする、 逃げるか?
いや、天涯孤独の俺がせっかく手に入れた二度目の人生だ。そう簡単に捨てるわけには——
「ハハハ! おいおい、まだ生きてやがったのか、アリアさんよぉ!」
思考を断ち切るように、下品な靴音が石畳を鳴らした。
振り返ると、派手な刺繍の入ったシルクの服を着た肥満体の男が、二人の用心棒を引き連れてニヤニヤと笑いながら歩み寄ってくる。
記憶のデータベースが即座にインデックスを抽出した。
——カルロス・ゴルドン。この街の有力商会『ゴルドン商会』のドラ息子であり、バカ息子。
「カルロス様……!」
トマスが俺を庇うように前に出るが、用心棒にあっさりと押し飛ばされた。
「黙ってろ老いぼれ! おいアリア、期限は今日だと言ったはずだぞ。お前の亡き親父が借りた金貨100枚……払えないなら、その器量良しの身体で払ってもらう約束だったよなぁ?」
カルロスが下劣な笑みを浮かべ、べっとりと粘つくような視線を俺——アリアの身体に這わせる。
(なるほど。コテコテのベタな展開だ……え、てか俺、こいつから金借りてるの?)
俺は冷や汗を拭い、小さく息を吐いた。動揺している暇はない。
目の前の脅威を排除しなければ、俺の二度目の人生はこいつの妾になって終わる。
「……トマス、ちょっといい?」
俺はトマスを呼び寄せ、小声で尋ねた。
この世界の経済システムを、超高速でインプットする必要がある。
「な、なんでしょうアリア様……?」
「ゴルドン商会から借りた金貨100枚って、具体的にどれくらいの価値? あと、この街の金利や金融の仕組みってどうなってるの?」
「ええっ、そ、そんな基本中の基本を忘れられたのですか……!? 金貨100枚といえば、大きな船が1隻買えるほどの大金です! 金利は月利で一割……返せなければ担保にあてた商会の屋敷と、アリア様ご自身が……!」
月利10%!?
年利に換算したら単利でも120%、複利なら約313%だ。
なんでそんな暴利で借りてるんだよ!
……ちょっと待て、今日が期限って言ってたよな。これ返せるのか?
俺はトマスに追加で尋ねる。
「ねえ、トマス。中央銀行……ううん、この国の貨幣の発行元や、為替を管理する公的な機関はあるの?」
「ちゅうおう……なんですかそれは? 貨幣は王家や商人の同盟が作っていますが、両替屋や商人が勝手に相場を決めていますよ。この港町は諸国の船が行き来するので、金貨の価値も毎日バラバラです」
——勝手に相場を決めている。
——中央銀行もなければ、金融監督官庁も、統一された金利の基準すらない。
その瞬間、俺の頭の中で無数の数式とチャートが弾けた。
この世界の市場は、完全な「非効率市場」だ。
それは制度設計が未成熟なせいで不均衡が放置されていることを意味する。
ウォール街のクオンツにとって、ここは天国だ。
市場のバグと歪みが、あちこちに落ちているのだから。
「おいアリア! 黙って聞いていれば……払えないなら大人しく俺の女になりな!」
カルロスが待ちきれずに手を伸ばしてくる。
俺はポニーテールを揺らして一歩前へ出ると、きりっと眉を吊り上げ、快活で毅然とした笑みを浮かべた。
「いい度胸じゃない、カルロス! でも残念だけど、私はアンタの女になる気なんてサラサラないわ!」
「あぁん!? 払えないくせに威勢だけはいいじゃねえか!」
「払えないなんて一言も言っていないでしょう?」
俺は胸を張り、自信満々に言い放つ。
(よし、現状の情報を元にブラフを打つ。市場の歪みをつく準備期間を稼ぐんだ)
「今日が期限だと言うなら、今日の『日没』までにきっちり金貨100枚、用意してあげるわ! だからそれまで、その汚いツラを私の視界から消してくれるかしら?」
「な……日没までに金貨100枚だと!? ……ハッ、ハッタリをぬかすな! どこにそんな金がある!」
「ハッタリかどうか、日没になれば分かるわよ! もし用意できなかったら私の身体でもなんでも、好きにすればいいじゃない!」
カルロスは俺の堂々とした態度に一瞬気圧されたが、すぐに鼻で笑った。
「……フン、いいだろう。どのみちあと数時間の命だ、悪あがきを見るのも悪くない。日没ぴったりにウチに来い! 金がなければ、力づくで連れて行くからな!」
吐き捨てるように捨て台詞を残し、カルロスたちは去っていった。
姿が見えなくなると同時に、トマスが膝から崩れ落ちる。
「あ、アリア様ぁぁ、どうするおつもりですか!? 日没までに金貨100枚なんて、逆立ちしても無理ですぞー!?」
「落ち着きなさい、トマス」
俺は自分の華奢な手を握り締め、冷たく澄んだ思考を巡らせる。
前世で学んだ数学と、市場理論。そしてこの世界の歪んだ経済構造。
中央銀行すら存在しない野蛮な市場とあのマセガキに、現代資本主義の恐ろしさを叩き込んでやる。




