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VERSE0.0-世界政府記録アーカイブ文書001  作者: 甘酒
エピソード1
9/94

第9話 忘れるという選択

案内された部屋は、それまで歩いてきた無機質な廊下とはまるで違っていた。


木目の机。来客用のソファ。湯気の立つ湯呑み。


病院のようでも、役所のようでもない。不思議と生活感のある空間だった。


その奥のソファには、恰幅の良い中年の男が腰掛けていた。


神主にも見えるが、どこか事務的でもある服装。柔らかな笑みを浮かべているせいか、威圧感はほとんど感じない。


「やあやあ、お疲れ様。」


男はゆっくり立ち上がると、穏やかな声で言った。


「――で、この子が?」


「はい。巻き込みました。」


ユズが短く答える。


「巻き込んだ、ねぇ。」


男は値踏みするような視線ではなく、純粋に興味を抱くような目でギンを見た。


「さて。この後、キミをどうするかなんだけどね。」


ソファを勧められたが、ギンは座らなかった。


立ったまま、床だけを見つめる。


頭の中では、同じ光景だけが何度も繰り返されていた。


父が倒れた。


母が叫んだ。


何もできなかった。


助けられなかった。


胸の奥では、まだ名前も付けられない感情が渦を巻いている。


怒りなのか。


憎しみなのか。


悲しみなのか。


それすら分からない。


ただ一つだけ確かなのは、あの怪物を――そして、あんなものが存在する世界そのものを許せないという思いだった。


男は静かに口を開く。


「まずは、選択肢の話をしようか。」


「一つは――記憶処理。」


「専用の薬を使って、今日見たもの、聞いたもの、この場所のことを全部忘れてもらう。そして元の生活に戻る。」


その一言で、ギンの肩がびくりと震えた。


「これがね、一番丸く収まるんだ。キミにとっても、ワタシたちにとっても。」


「……忘れる?」


声が震えていた。


「両親のことも、か?」


男は少しだけ間を置いた。


「いや、ご両親まで消すことはしない。消えるのは今日ここで知ったことだけだよ。」


その説明を聞いても、胸の中のざわめきは収まらない。


「……冗談じゃない。」


ギンはゆっくり顔を上げた。


その目には涙ではなく、燃え上がるような怒りが宿っていた。


「俺にはもう身寄りなんてない。」


「家だって、燃えて残ってるかどうかも分からない。」


「それで記憶まで消されて、その辺に放り出されて……全部終わりだっていうのか。」


拳が震える。


「ふざけるな。」


部屋の空気が一瞬だけ張り詰めた。


ユズは何も言わない。


ただ黙って、その様子を見つめていた。


男もまた表情を変えなかった。


むしろ、予想していた反応だと言わんばかりに、小さく頷く。


「うん。まあ、そう言うだろうと思ったよ。」


「一応言っておくとね。記憶を消すのはワタシたちの都合だけじゃない。」


「キミたちを守るためでもあるんだ。」


ギンは眉をひそめる。


男は湯呑みに手を伸ばし、一口だけ茶を飲んでから続けた。


「この世界のことを知る人間が増えれば増えるほど――怪異は強くなる。」


「だから知る人間は、なるべく少ない方がいい。」


「それが、この組織の建前なんだ。」


詳しい説明はなかった。


それでも、その言葉だけで十分だった。


この世界には、自分の知らない法則がある。


そんな気配だけは嫌というほど伝わってくる。


「……知ったら、まずいってことか。」


「まずい、というか。色々とね。」


男は曖昧に笑った。


それ以上は語らない。


「とはいえ。」


「キミがそこまで嫌なら、記憶処理は無しの方向で考えよう。」


その言葉に、ギンはようやく息を吐いた。


張り詰めていた肩の力が少しだけ抜ける。


沈黙が流れたあと、ギンは口を開いた。


「……じゃあ聞く。」


「世界政府って、何なんだ。」


「国連とは違うのか。」


男は少し驚いたように目を丸くした。


「おや。聞く気になったか。」


「いいことだ。」


男は笑う。


「簡単に言えば、人類社会を、人類自身から守るための組織かな。」


「守る……?」


「この世界にはね。」


「キミが今日見たような怪異が、本当にそこら中にいる。」


「神様も、妖怪も、悪魔も、精霊も。」


「人間が昔から信じてきた存在は、大体、本当にいるんだよ。」


あまりにも現実離れした言葉だった。


頭では否定したい。


けれど今日、自分は実際に見てしまった。


だから否定できない。


「それを世界中の人が知ったら、おそらく社会は成り立たない。」


「だから世界政府が秘密裏に管理している。」


「本部は地底世界。」


「南極に大きな縦穴があってね。そこが主なルートになってる。」


「地底……?」


「政府が?」


「日本だけじゃない。」


「世界中に支部がある。」


「ここは、その神奈川支部ってわけ。」


情報が多すぎる。


理解は追いつかない。


それでも、さっきまで得体の知れない恐怖だったものが、少しだけ輪郭を持ち始めていた。


「……滅茶苦茶だな。」


「うん。」


「滅茶苦茶だよ。」


男はまるで他人事のように笑う。


けれど、ギンの胸に残る不安は消えなかった。


――じゃあ。


俺は、これからどうなる。


その答えだけは、まだ誰も口にしていなかった。

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