第9話 忘れるという選択
案内された部屋は、それまで歩いてきた無機質な廊下とはまるで違っていた。
木目の机。来客用のソファ。湯気の立つ湯呑み。
病院のようでも、役所のようでもない。不思議と生活感のある空間だった。
その奥のソファには、恰幅の良い中年の男が腰掛けていた。
神主にも見えるが、どこか事務的でもある服装。柔らかな笑みを浮かべているせいか、威圧感はほとんど感じない。
「やあやあ、お疲れ様。」
男はゆっくり立ち上がると、穏やかな声で言った。
「――で、この子が?」
「はい。巻き込みました。」
ユズが短く答える。
「巻き込んだ、ねぇ。」
男は値踏みするような視線ではなく、純粋に興味を抱くような目でギンを見た。
「さて。この後、キミをどうするかなんだけどね。」
ソファを勧められたが、ギンは座らなかった。
立ったまま、床だけを見つめる。
頭の中では、同じ光景だけが何度も繰り返されていた。
父が倒れた。
母が叫んだ。
何もできなかった。
助けられなかった。
胸の奥では、まだ名前も付けられない感情が渦を巻いている。
怒りなのか。
憎しみなのか。
悲しみなのか。
それすら分からない。
ただ一つだけ確かなのは、あの怪物を――そして、あんなものが存在する世界そのものを許せないという思いだった。
男は静かに口を開く。
「まずは、選択肢の話をしようか。」
「一つは――記憶処理。」
「専用の薬を使って、今日見たもの、聞いたもの、この場所のことを全部忘れてもらう。そして元の生活に戻る。」
その一言で、ギンの肩がびくりと震えた。
「これがね、一番丸く収まるんだ。キミにとっても、ワタシたちにとっても。」
「……忘れる?」
声が震えていた。
「両親のことも、か?」
男は少しだけ間を置いた。
「いや、ご両親まで消すことはしない。消えるのは今日ここで知ったことだけだよ。」
その説明を聞いても、胸の中のざわめきは収まらない。
「……冗談じゃない。」
ギンはゆっくり顔を上げた。
その目には涙ではなく、燃え上がるような怒りが宿っていた。
「俺にはもう身寄りなんてない。」
「家だって、燃えて残ってるかどうかも分からない。」
「それで記憶まで消されて、その辺に放り出されて……全部終わりだっていうのか。」
拳が震える。
「ふざけるな。」
部屋の空気が一瞬だけ張り詰めた。
ユズは何も言わない。
ただ黙って、その様子を見つめていた。
男もまた表情を変えなかった。
むしろ、予想していた反応だと言わんばかりに、小さく頷く。
「うん。まあ、そう言うだろうと思ったよ。」
「一応言っておくとね。記憶を消すのはワタシたちの都合だけじゃない。」
「キミたちを守るためでもあるんだ。」
ギンは眉をひそめる。
男は湯呑みに手を伸ばし、一口だけ茶を飲んでから続けた。
「この世界のことを知る人間が増えれば増えるほど――怪異は強くなる。」
「だから知る人間は、なるべく少ない方がいい。」
「それが、この組織の建前なんだ。」
詳しい説明はなかった。
それでも、その言葉だけで十分だった。
この世界には、自分の知らない法則がある。
そんな気配だけは嫌というほど伝わってくる。
「……知ったら、まずいってことか。」
「まずい、というか。色々とね。」
男は曖昧に笑った。
それ以上は語らない。
「とはいえ。」
「キミがそこまで嫌なら、記憶処理は無しの方向で考えよう。」
その言葉に、ギンはようやく息を吐いた。
張り詰めていた肩の力が少しだけ抜ける。
沈黙が流れたあと、ギンは口を開いた。
「……じゃあ聞く。」
「世界政府って、何なんだ。」
「国連とは違うのか。」
男は少し驚いたように目を丸くした。
「おや。聞く気になったか。」
「いいことだ。」
男は笑う。
「簡単に言えば、人類社会を、人類自身から守るための組織かな。」
「守る……?」
「この世界にはね。」
「キミが今日見たような怪異が、本当にそこら中にいる。」
「神様も、妖怪も、悪魔も、精霊も。」
「人間が昔から信じてきた存在は、大体、本当にいるんだよ。」
あまりにも現実離れした言葉だった。
頭では否定したい。
けれど今日、自分は実際に見てしまった。
だから否定できない。
「それを世界中の人が知ったら、おそらく社会は成り立たない。」
「だから世界政府が秘密裏に管理している。」
「本部は地底世界。」
「南極に大きな縦穴があってね。そこが主なルートになってる。」
「地底……?」
「政府が?」
「日本だけじゃない。」
「世界中に支部がある。」
「ここは、その神奈川支部ってわけ。」
情報が多すぎる。
理解は追いつかない。
それでも、さっきまで得体の知れない恐怖だったものが、少しだけ輪郭を持ち始めていた。
「……滅茶苦茶だな。」
「うん。」
「滅茶苦茶だよ。」
男はまるで他人事のように笑う。
けれど、ギンの胸に残る不安は消えなかった。
――じゃあ。
俺は、これからどうなる。
その答えだけは、まだ誰も口にしていなかった。




