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VERSE0.0-世界政府記録アーカイブ文書001  作者: 甘酒
エピソード8
89/94

正体

廊下の角を曲がる。


 職員たちの視線が届かなくなったところで、青年はようやく歩みを止めた。


 静かに息を吐く。


 握っていた書類を机へ置こうとして――


 わずかに手が震えていることに気付いた。


「……。」


 ゆっくりと拳を握る。


 震えは、すぐには止まらなかった。


 戦いが怖かったわけではない。


 最高司令という立場が重かったわけでもない。


 ただ。


 生きていた。


 それだけだった。


 笑っていた。


 怒っていた。


 くだらないことで言い合っていた。


 その当たり前が、目の前にあった。


 青年は静かに目を閉じる。


 瞼の裏を、一つの景色が過ぎる。


 重い。


 ただ、それだけが残る。


 もう二度と思い出したくないほど鮮明で。


 それでも、一度たりとも忘れられなかった。


 青年は目を開く。


「……知っている、か。」


 小さく、自嘲する。


 記録を読んだから。


 経験があるから。


 そんな言い訳が、どれほど薄っぺらいものか。


 誰よりも自分が知っていた。


 言えるはずがない。


 あの少年は、何も知らない。


 知らなくていい。


 今も笑っていられるのなら、それでいい。


 自分が見てきたものを。


 背負ってきた時間を。


 押し付ける資格など、どこにもなかった。


 だから。


「補佐官で十分です。」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。


 肩書きなど意味はない。


 必要だったのは、命令できる立場。


 それだけだった。


 そのためなら。


 何者になってもよかった。


 どれだけ長い時間を費やそうとも。


 どれだけ遠回りになろうとも。


 世界政府最高司令。


 その肩書きは、目的ではない。


 ただ、一つの手段だった。


 青年は窓の外へ目を向ける。


 夕日に照らされた神奈川支部。


 中庭では、数人の職員が忙しなく走り回っている。


 その中に。


 三人の姿が見えた。


 何かを言い合って。


 笑っている。


 その光景を見つめる青年の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


『今度は、こちらが守る番だ。』


 いつか胸に刻まれた、その言葉。


 それだけを支えに歩いてきた。


 託されたものは、力ではない。


 未来だった。


「……よかった。」


 あまりにも小さな呟きは、誰にも届かない。


 青年は再び無表情を取り戻す。


 通信端末が震えた。


「最高司令。」


 本部からの通信。


「円卓側の動きが活発化しています。」


「分かった。」


 短く返答する。


 決着は近い。


 だからこそ。


 もう誰も失わない。


 そのために、自分はここまで来たのだから。

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