正体
廊下の角を曲がる。
職員たちの視線が届かなくなったところで、青年はようやく歩みを止めた。
静かに息を吐く。
握っていた書類を机へ置こうとして――
わずかに手が震えていることに気付いた。
「……。」
ゆっくりと拳を握る。
震えは、すぐには止まらなかった。
戦いが怖かったわけではない。
最高司令という立場が重かったわけでもない。
ただ。
生きていた。
それだけだった。
笑っていた。
怒っていた。
くだらないことで言い合っていた。
その当たり前が、目の前にあった。
青年は静かに目を閉じる。
瞼の裏を、一つの景色が過ぎる。
重い。
ただ、それだけが残る。
もう二度と思い出したくないほど鮮明で。
それでも、一度たりとも忘れられなかった。
青年は目を開く。
「……知っている、か。」
小さく、自嘲する。
記録を読んだから。
経験があるから。
そんな言い訳が、どれほど薄っぺらいものか。
誰よりも自分が知っていた。
言えるはずがない。
あの少年は、何も知らない。
知らなくていい。
今も笑っていられるのなら、それでいい。
自分が見てきたものを。
背負ってきた時間を。
押し付ける資格など、どこにもなかった。
だから。
「補佐官で十分です。」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
肩書きなど意味はない。
必要だったのは、命令できる立場。
それだけだった。
そのためなら。
何者になってもよかった。
どれだけ長い時間を費やそうとも。
どれだけ遠回りになろうとも。
世界政府最高司令。
その肩書きは、目的ではない。
ただ、一つの手段だった。
青年は窓の外へ目を向ける。
夕日に照らされた神奈川支部。
中庭では、数人の職員が忙しなく走り回っている。
その中に。
三人の姿が見えた。
何かを言い合って。
笑っている。
その光景を見つめる青年の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
『今度は、こちらが守る番だ。』
いつか胸に刻まれた、その言葉。
それだけを支えに歩いてきた。
託されたものは、力ではない。
未来だった。
「……よかった。」
あまりにも小さな呟きは、誰にも届かない。
青年は再び無表情を取り戻す。
通信端末が震えた。
「最高司令。」
本部からの通信。
「円卓側の動きが活発化しています。」
「分かった。」
短く返答する。
決着は近い。
だからこそ。
もう誰も失わない。
そのために、自分はここまで来たのだから。




