最高司令
各地で発生した裂け目は、予想を大きく下回る被害で次々と鎮圧されていった。
負傷者こそ出たものの、死者は報告されていない。
司令室を埋め尽くしていた慌ただしい声も、ようやく落ち着きを取り戻し始めていた。
「……こんなの、初めてだ。」
通信卓の職員が、小さく息を漏らす。
「これだけ同時多発で裂け目が発生したのに……。」
「信じられん。本当に人的被害ゼロなのか……?」
誰もが同じ思いだった。
あまりにも出来すぎている。
まるで最初から、敵の動きがすべて分かっていたかのような戦いだった。
◇
司令室を出た廊下でも、職員たちは慌ただしく行き交っていた。
その中を、一人の青年が静かに歩いていく。
「最高司令。」
すれ違った職員が足を止め、深く頭を下げる。
「本部への帰還便の準備が整っております。」
「……後でいい。」
青年は歩みを止めない。
「まだ、こちらでやることがある。」
「しかし、本部では会議が――」
「後で構わない。」
短く、それだけ告げる。
「……承知しました。」
職員はそれ以上何も言わず、深々と頭を下げた。
そのやり取りを、少し離れた場所からギンたちは見ていた。
「……。」
ギンは目を瞬かせる。
「え。」
エースも口を半開きにしたまま固まっている。
「やっぱり……。」
ユズが小さく呟く。
「あの人、本当に最高司令なんですね……。」
「いやいやいや。」
ギンは首を横に振った。
「どう見ても俺らと歳変わんねぇじゃん。」
「俺も信じたくねえけど。」
エースも苦笑する。
「さっきから職員全員あの態度だ。間違いねえ。」
ギンは腕を組んだ。
「……ちょっと聞いてくる。」
「お、おい!」
止める間もなく歩き出してしまう。
ユズとエースは慌ててその後を追った。
◇
「なあ。」
青年は振り返る。
黒い瞳が、静かにギンを映した。
「今日、助けてくれたよな。」
「……。」
「ありがとう。」
その一言に、青年は何も答えない。
ただ静かに待っている。
「でもさ。」
ギンは首を傾げた。
「あんた、何者なんだ?」
「なんで俺らのいる場所が分かった?」
「なんで敵が出てくる場所まで全部知ってた?」
「それに。」
ギンは苦笑する。
「最高司令なのに、なんで現場なんか来てんだよ。」
少しだけ沈黙が流れた。
青年は書類を整えながら答える。
「記録を読んでいるだけだ。」
「いやいや。」
ギンは思わず笑う。
「記録読んだだけであんな動きできたら苦労しねぇって。」
返事はない。
青年は書類を閉じる。
その横顔は、何を考えているのかまったく読み取れなかった。
「……じゃあさ。」
ギンはもう一歩近付く。
「名前くらい教えてくれよ。」
「俺はギン。」
「こっちはエース。」
「ユズ。」
ユズも小さく頭を下げた。
「で、あんたは?」
青年は三人を見つめる。
ほんの一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
その瞳が、懐かしいものを見るように揺れた。
しかし次の瞬間には、何事もなかったかのような静けさへ戻っていた。
「……ただの補佐官です。」
「……は?」
ギンが固まる。
「補佐官?」
その瞬間だった。
近くで報告書を運んでいた職員たちが、一斉に息を呑む。
「お、おい……。」
「何を言ってるんだ、あの新人……。」
「最高司令に向かって……。」
小声が聞こえてくる。
エースもその空気に気付き、慌ててギンの肩を掴んだ。
「お前、もう少し言い方ってもんが……!」
「いやだって!」
ギンは困惑する。
「本人が補佐官って――」
「ええ。」
青年は平然と頷いた。
「雑務を担当しています。」
職員たちが一斉に目を丸くする。
「司……。」
誰かが何か言いかける。
青年は視線だけを向けた。
それだけで、その職員は口を閉ざした。
「ほら。」
ギンはエースへ振り向く。
「やっぱ補佐官じゃん。」
「いや……。」
エースは頭を抱えた。
「絶対違うだろ……。」
青年は少しだけ視線を逸らした。
口元が、ほんのわずかに緩みかける。
だが、それも一瞬だった。
すぐにいつもの無表情へ戻る。
「それより。」
青年は静かに言った。
「怪我はありませんか。」
「あ?」
「今は、それが一番大切です。」
ユズが小さく笑う。
「はい。みんな無事です。」
「そうですか。」
短い返事。
それだけなのに。
青年は、胸の奥に張り詰めていた糸が切れたように、小さく息を吐いた。
「……よかった。」
あまりにも小さな声だった。
三人には届かないほど。
青年は踵を返す。
「失礼します。」
「え、もう帰るのか?」
ギンの問いにも振り返らない。
廊下を静かに歩いていく。
「クロノス最高司令!帰還便、用意できました!」
職員たちは次々と足を止め、敬礼を送る。
それに応えることもなく、青年は角を曲がった。
◇
誰もいない廊下。
青年はようやく歩みを止めた。
壁へそっと手を添える。
静かに目を閉じる。
胸の奥に込み上げるものを、誰にも見られないように。
(……助けられた。)
その想いだけを胸にしまうと、青年は再び顔を上げた。
もう、そこに迷いはない。
最高司令として、次の戦場へ向かうために。




