異変
「――で、結局いつまでこっちにいるんだ? エース」
待機室のソファにもたれたまま、ギンは缶ジュースのプルタブを開ける。
向かいではエースが腕を組み、大きなあくびを噛み殺す。
「さあな。円卓のあの宣戦布告があったろ。各支部から戦力を集めてる最中だし、しばらくは神奈川に厄介になるかもな」
「迷惑料でも払えよ」
「食堂のプリンならやる」
「いらねえ」
そんな他愛もないやり取りに、二人は小さく笑った。
束の間の静寂。
――その空気を裂くように、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
「急げ!」
「まだ到着まで時間が――」
「馬鹿、もう着く!」
何事かと待機室の外へ目を向ける。
聞こえてくる職員たちの声は、どれも緊迫していた。
「最高司令が、神奈川支部へ向かわれている!」
「本部から直々に!?」
「室長を呼べ!」
「全員、敬礼準備!」
ざわめきは瞬く間に廊下中へ広がっていく。
ギンは思わずエースを見る。
「最高司令って……世界政府の、一番偉い人だよな?」
「ああ。」
エースも珍しく眉をひそめていた。
「俺も詳しくは知らねえけど、先代が失脚してから就任したらしい。とんでもなく若いって噂だけは聞いたことがある。」
「若いって?」
「二十歳そこそこじゃねえかって。」
「そんな奴が最高司令?」
「だから噂なんだよ。」
二人とも半信半疑だった。
そんな人物が、こんな地方支部へ来る理由など思い浮かばない。
その時だった。
待機室の扉が、静かに開く。
音らしい音はなかった。
ただ、それだけで部屋の空気が変わる。
一人の青年が立っていた。
黒髪。
黒い制服。
整った顔立ちには、感情らしい感情が見当たらない。
その瞳だけが、不思議なほど静かだった。
青年は部屋を一瞥し、短く告げる。
「――総員、配置につけ。」
低く落ち着いた声。
「世界各地で、次元の裂け目が同時に発生する。」
それだけ言うと、青年は返事を待つことなく歩き出した。
「あ、おい。」
ギンが思わず呼び止める。
「誰だよ、あんた。」
青年は振り返らない。
そのまま廊下の奥へ消えていった。
数秒後だった。
支部全体に警報が鳴り響く。
『――全職員へ緊急通達。世界各地において、次元の裂け目の同時多発的出現を確認。各員は直ちに第一種戦闘配置へ移行せよ』
ギンは思わず立ち尽くく。
「……おい。」
エースも表情を強張らせる。
「今の……。」
「警報より先に言ってたよな。」
二人は顔を見合わせる。
偶然。
そんな一言で片付けられる空気ではなかった。
「行くぞ。」
「あ、ああ。」
二人は慌てて司令室へ駆け出した。
◇
作戦司令室では、すでに各支部との通信が絶え間なく飛び交っていた。
大型モニターには世界地図が映し出され、その各地で赤い警告表示が次々と灯っていく。
「ヨーロッパ支部、裂け目拡大!」
「北米第二防衛線、交戦開始!」
「太平洋方面より多数接近!」
怒号が飛び交う中、その青年だけは静かだった。
「太平洋方面、防衛ラインを一時後退。」
迷いがない。
「関西支部への転移経路を変更。神奈川へ優先的に戦力を回せ。」
「ですが、関西方面も――」
「問題ない。」
短い一言。
「二十三分後に敵は撤退する。」
一瞬。
司令室全体が静まり返った。
誰も、その数字の意味を理解できない。
それでも。
「……了解!」
誰一人として異を唱えなかった。
青年の言葉には、不思議なほど逆らえない重みがあった。
その隣で、室長は微動だにせず姿勢を正している。
「……最高司令。」
普段の豪胆な面影はない。
まるで新兵のように背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「まさか御自ら神奈川支部へお越しになるとは……。」
「気にするな。」
青年はモニターから視線を外さない。
「今回は、この支部が最重要拠点になる。」
淡々とした声だった。
だが、その一言だけで司令室の空気が張り詰める。
ギンは隣のエースへ小声で囁いた。
「……え。」
「つまり。」
「さっきの奴が……。」
エースも信じられないという顔で青年を見つめる。
「最高司令……なのか。」
青年はそんな二人に目もくれない。
次々と報告を受け、次々と命令を下していく。
誰よりも早く。
誰よりも迷いなく。
まるで、この戦場の結末を知っている者だけが持つ確信を、その胸に秘めているかのように。




