人智を超えて
膝をついたまま。
クロは、しばらく動けなかった。
腕の中には。
数えきれないほどの黄金の林檎。
ギンの分。
境の分。
名前を知っている者。
知らない者。
短い言葉を交わしただけの者。
それでも。
全てが。
確かに誰かが生きていた証だった。
「……」
クロは、黄金の林檎を見つめる。
その一つ一つに。
声があるような気がした。
笑った顔。
交わした言葉。
最後まで諦めなかった姿。
そして。
あの声。
――今度は、お前が。
――誰かを守れよ。
――信じてるから。
ギンの言葉が。
まだ耳の奥に残っていた。
「……僕なんかが」
いつもの言葉が。
自然と口から漏れそうになる。
僕なんかが。
何をしても。
何も変えられない。
ずっとそう思っていた。
祖父のようにはなれない。
父のようにもなれない。
誰かのような強さなんて、自分にはない。
だから。
諦めていた。
自分には何もないのだと。
でも。
「……違う」
クロは、ゆっくり顔を上げた。
震える声で。
自分自身へ言い聞かせる。
「いつまで……言ってるんだ」
僕なんかが。
その言葉で。
何度、自分から逃げてきた。
何度、誰かに任せてきた。
怖かったから。
失敗するのが怖かったから。
傷つくのが怖かったから。
でも。
今は違う。
目の前には。
自分へ託されたものがある。
誰かが最後まで守ろうとしたものがある。
それを。
また「自分なんか」なんて理由で手放すことだけは。
できなかった。
クロは。
ゆっくり立ち上がる。
膝は震えていた。
身体も重かった。
それでも。
立った。
「……やる」
小さな声。
けれど。
確かな意思があった。
「僕が、やる」
黄金の林檎を抱きしめる。
「もう……これ以上」
息を吸う。
「何も見捨てたくない」
その瞬間。
黄金の林檎が。
一斉に輝いた。
まばゆい光。
熱。
音。
全てが混ざり合い。
クロの視界を白く染めていく。
「……え」
足元の感覚が消える。
戦場の音が遠ざかる。
瓦礫も。
血も。
炎も。
全てが消えていく。
気づいた時。
そこには。
何もなかった。
上もない。
下もない。
遠くもない。
近くもない。
始まりも。
終わりも。
存在しない。
ただ。
言葉では表現できない場所。
そこに。
何かがいた。
姿は見えない。
輪郭も分からない。
それでも。
クロには理解できた。
これは。
今まで出会ってきた存在とは違う。
神と呼ばれる者たち。
そのどれとも。
比べられない。
あまりにも巨大で。
あまりにも古い。
ただ存在しているだけで。
自分というものが消えてしまいそうになる。
そんな何かだった。
――願いを、聞いた。
声なのか。
思考なのか。
分からない。
ただ。
直接、意識へ届いた。
――だが。
――望むものを得るには、対価が必要だ。
クロは黙って聞く。
――それは容易なものではない。
――時間では測れぬほどの。
――耐え難いほどの。
――孤独を伴う。
一瞬。
いや。
それが一瞬だったのか。
永遠だったのか。
クロには分からなかった。
ただ。
その存在が告げるものの重さだけは理解できた。
普通なら。
恐れる。
拒む。
逃げる。
そうするほどのものだった。
けれど。
クロは。
もう迷わなかった。
「……構いません」
声は震えていた。
それでも。
言葉は揺れなかった。
「何を差し出せと言われても」
黄金の林檎を握りしめる。
「もう、決めましたから」
長い沈黙。
世界そのものが。
答えを待っているようだった。
そして。
――良かろう。
その言葉と同時に。
黄金の林檎が浮かび上がる。
一つ。
また一つ。
無数の光が。
クロの身体へ吸い込まれていく。
熱い。
痛い。
苦しい。
けれど。
それ以上に。
重かった。
受け取ったもの。
背負ったもの。
失われた命。
託された願い。
全てが。
クロの中へ流れ込んでくる。
何かを得た。
何かを失った。
その境界すら。
もう分からない。
ただ。
分かった。
自分は今。
途方もないものと。
途方もないものを交換した。
意識が薄れていく。
身体の感覚が消える。
それでも。
最後まで。
クロの中に残ったものがあった。
恐怖ではない。
迷いでもない。
ただ一つの願い。
「……今度こそ」
誰に届くでもなく。
呟く。
「守る」
「誰も……見捨てない」
その瞬間。
クロの意識は。
世界の外側へ。
途方もなく長い時の狭間へ。
落ちていった。




