バトン
風を切る音がした。
次の瞬間。
クロと怪異の間に、一つの影が割り込んだ。
「――危ない!」
聞き覚えのある声。
銀色の髪が、視界を横切る。
ギンだった。
構えた武器を盾のように掲げ、迫る怪異の爪を真正面から受け止めている。
「……っ!」
凄まじい衝撃。
地面が沈む。
腕の骨が軋む。
普通ならば、その一撃で吹き飛ばされていた。
それでも。
ギンは退かなかった。
「……まだだ」
歯を食いしばる。
胸の奥で、熱が燃えていた。
今まで感じたことのないほど強い熱。
守れ。
守れ。
守れ。
身体中が、叫んでいる。
それは命令ではなかった。
願いだった。
誰かを失いたくない。
もう二度と、目の前で誰かが消えるのを見たくない。
その想いが。
ギンの身体を動かしていた。
「うおおおおっ!」
力を込める。
そして。
怪異の爪を、弾き返した。
「……は」
一瞬。
世界の音が遠ざかった。
ギン自身にも分かった。
何かが。
限界を越えた。
今まで何度も無視してきたもの。
戦うたびに身体の奥へ積み重なっていた違和感。
立ちくらみ。
息苦しさ。
力を使った後に残る、説明できない疲労。
それら全てが。
今、この瞬間。
一気に押し寄せた。
「……っ、ぐ」
膝から力が抜ける。
視界が暗くなる。
身体が言うことを聞かない。
それでも。
倒れるわけにはいかなかった。
背後には。
クロがいる。
動けない負傷者がいる。
だから。
最後の力を振り絞る。
ギンは、もう一度だけ前へ出た。
怪異が咆哮する。
そして。
振り上げられた腕が、再び振り下ろされた。
避けられない。
防ぐ力も残っていない。
それでも。
ギンは迷わなかった。
自分の身体を。
盾にした。
「――ッ!」
鈍い衝撃。
世界が揺れる。
身体が宙を舞う。
そして。
クロの目の前に。
ギンが倒れた。
「……え」
何が起きたのか。
理解できなかった。
目の前にいる。
さっきまで戦っていた少年。
自分を助けるために。
また。
誰かの前に立った少年。
「……なんで」
クロの声が震える。
「なんで……」
倒れたギンの身体から、赤い染みが広がっていく。
「なんで、僕なんかを……!」
叫びだった。
怒りでも。
悲しみでもない。
理解できないものへの、震える問いだった。
ギンは、ゆっくり目を開けた。
そして。
いつものように。
少しだけ笑った。
「……うるさいな」
掠れた声。
「そんなの……決まってんだろ」
息を吐く。
「助けられる奴を……放っとけないだけだよ」
少し間を置いて。
「……俺らしくないけどさ」
「喋らないでください!」
クロは必死に叫ぶ。
「今、誰か呼びます! 絶対、助かりますから!」
震える手で通信機を探す。
けれど。
「――クロ」
その声に。
動きが止まった。
名前を呼ばれた。
「……え」
「お前さ」
ギンは苦しそうに息をする。
「前にも一回……俺に助けられたこと、あったろ」
「……」
「島の事件」
クロの目が見開かれる。
「なんで……」
「記録、見たんだよ」
ギンは小さく笑った。
「お前のこと」
「……」
「ずっと気になってた」
戦場の音が遠ざかっていく。
クロには。
ギンの声だけが聞こえていた。
「お前、自分のこと……無力だって思ってるだろ」
「……僕は」
言葉が詰まる。
「僕は……何もできなくて」
ギンは首を横に振った。
「違う」
弱々しい。
それでも。
真っ直ぐな声だった。
「今日だって」
「怖かったはずなのに」
「逃げなかっただろ」
クロの瞳が揺れる。
「動けなくても」
「それでも、誰かを助けようとしてた」
ギンは、少しだけ息を吸う。
「それってさ」
「簡単にできることじゃない」
ギンの手が震える。
それでも。
ゆっくりと持ち上がる。
クロの胸元へ触れる。
「できなくていい」
「……」
「強くなくてもいい」
「……」
「怖くてもいい」
ギンの目が、クロを見る。
「それでも」
「誰かを守りたいって思えるなら」
「それで十分だ」
一瞬。
エースの最後の姿が。
ギンの脳裏をよぎった。
あの日。
背中を押してくれた人。
最後まで笑っていた人。
そして今。
自分が、同じように誰かへ想いを渡している。
「今度は」
ギンの声が、少しずつ小さくなる。
「お前が」
「誰かを守れよ」
「……信じてるから」
その言葉を最後に。
ギンの瞳から。
光が消えた。
「……」
静寂。
ほんの一瞬。
戦場の全てが止まったようだった。
そして。
ギンの胸元から。
淡い金色の光が溢れ出す。
それは炎ではなかった。
魂だった。
エースから受け取った想い。
ギンが抱え続けた覚悟。
その全てが。
一つの形へ変わっていく。
光はゆっくりと輪郭を持つ。
黄金色に輝く林檎。
それが。
震えるクロの手の中へ落ちた。
「……あ」
熱くない。
冷たくもない。
ただ。
重かった。
あまりにも重かった。
「ギン……さん」
声が震える。
「ギンさん……!」
何度呼んでも。
返事はない。
もう。
二度と。
クロは黄金の林檎を握りしめた。
その瞬間。
声は聞こえなかった。
けれど。
確かに感じた。
――今度は、お前が。
「……」
クロは、その場に崩れ落ちる。
戦場の喧騒の中。
一人だけ取り残されたように。
ただ。
託された想いの重さを抱えたまま。




