恐怖
「――下がれ!」
怒号が響いた。
「前線、維持できない! 後方支援拠点まで後退する!」
その声を合図に。
戦場の形が、崩れた。
守る側と攻める側。
前線と後方。
その境界が、意味を失っていく。
「撤退! 急げ!」
職員たちが一斉に走り出す。
負傷者を抱える者。
武器を持つ者。
まだ動ける者が、動けない者を支えながら後退していく。
だが。
その流れに。
一人だけ、取り残された影があった。
「……クロくん!」
誰かの声が聞こえる。
「早く逃げて!」
分かっている。
逃げなければいけない。
ここに残れば死ぬ。
そんなことは、頭では理解していた。
けれど。
クロの視線は。
目の前に倒れている一人の職員から離れなかった。
「……大丈夫ですか」
返事はない。
正確には、返事をする余裕すらないのだろう。
負傷した職員は、瓦礫の下で動けずにいた。
片腕は力なく垂れ下がり、呼吸も浅い。
「立てますか……?」
クロは震える手を伸ばす。
「僕が、運びますから……」
言葉にする。
自分へ言い聞かせるために。
大丈夫。
できる。
今までだって、できることをやってきた。
戦えなくても。
力がなくても。
誰かを助けることはできる。
そう思っていた。
だから。
手を伸ばした。
なのに。
身体が、動かない。
負傷者を持ち上げようとしても、腕に力が入らない。
焦れば焦るほど、指先が震える。
布を掴む。
ただそれだけの動作が、異様なほど難しかった。
「……っ」
歯を食いしばる。
動け。
動け。
今、動かなければ。
この人が――。
その時。
「……」
背後から。
何かの気配がした。
ゆっくりと顔を上げる。
瓦礫の向こう。
崩れた建物の影から。
それは姿を現した。
怪異。
今まで遠くにしか感じなかった存在が。
今、すぐそこにいる。
赤く濁った瞳。
異様に歪んだ身体。
こちらを見つめるだけで、全身の感覚が麻痺するような圧。
クロの呼吸が止まった。
「……あ」
声にならない音が漏れる。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
逃げろ。
今すぐ逃げろ。
本能が叫んでいる。
けれど。
足が。
動かなかった。
怖い。
怖い。
怖い。
ただ、それだけだった。
どれだけ覚悟しても。
どれだけ誰かを助けたいと思っても。
恐怖そのものを消すことなんてできない。
クロは昔からそうだった。
誰かのために何かをしたい。
そう願う気持ちだけは、誰より強かった。
でも。
肝心な瞬間になると。
身体が先に止まる。
臆病な自分が、いつも前に出てくる。
「……っ」
逃げたい。
逃げなければ。
でも。
この人を置いていけない。
助けたい。
でも。
怖い。
相反する感情が、クロの中でぶつかり合う。
そして。
どちらにも勝てなかった。
怪異が、一歩近づく。
瓦礫を踏み砕く音。
そのたびに、クロの身体が震える。
「……ごめん」
小さな声が漏れた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「ごめんなさい……」
目の前の人へ。
今まで助けてくれた人たちへ。
そして。
何もできない自分自身へ。
「僕……」
声が震える。
「何も……」
その先の言葉は続かなかった。
怪異が腕を振り上げる。
巨大な爪が、視界いっぱいに広がる。
避けられない。
守れない。
動けない。
まただ。
また、自分は――。
その瞬間。
風が吹いた。
轟音。
空気を切り裂く音。
次の瞬間。
クロと怪異の間に。
何かが割り込んでいた。
巨大な爪を受け止める、一つの影。
「……え」
クロは呆然と見上げる。
その背中を。
彼は、知っていた。
「……ギン」
戦場の中で。
その少年だけが。
いつものように。
誰かの前に立っていた。




