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VERSE0.0-世界政府記録アーカイブ文書001  作者: 甘酒
エピソード7
82/94

恐怖

「――下がれ!」


怒号が響いた。


「前線、維持できない! 後方支援拠点まで後退する!」


その声を合図に。


戦場の形が、崩れた。


守る側と攻める側。


前線と後方。


その境界が、意味を失っていく。


「撤退! 急げ!」


職員たちが一斉に走り出す。


負傷者を抱える者。


武器を持つ者。


まだ動ける者が、動けない者を支えながら後退していく。


だが。


その流れに。


一人だけ、取り残された影があった。


「……クロくん!」


誰かの声が聞こえる。


「早く逃げて!」


分かっている。


逃げなければいけない。


ここに残れば死ぬ。


そんなことは、頭では理解していた。


けれど。


クロの視線は。


目の前に倒れている一人の職員から離れなかった。


「……大丈夫ですか」


返事はない。


正確には、返事をする余裕すらないのだろう。


負傷した職員は、瓦礫の下で動けずにいた。


片腕は力なく垂れ下がり、呼吸も浅い。


「立てますか……?」


クロは震える手を伸ばす。


「僕が、運びますから……」


言葉にする。


自分へ言い聞かせるために。


大丈夫。


できる。


今までだって、できることをやってきた。


戦えなくても。


力がなくても。


誰かを助けることはできる。


そう思っていた。


だから。


手を伸ばした。


なのに。


身体が、動かない。


負傷者を持ち上げようとしても、腕に力が入らない。


焦れば焦るほど、指先が震える。


布を掴む。


ただそれだけの動作が、異様なほど難しかった。


「……っ」


歯を食いしばる。


動け。


動け。


今、動かなければ。


この人が――。


その時。


「……」


背後から。


何かの気配がした。


ゆっくりと顔を上げる。


瓦礫の向こう。


崩れた建物の影から。


それは姿を現した。


怪異。


今まで遠くにしか感じなかった存在が。


今、すぐそこにいる。


赤く濁った瞳。


異様に歪んだ身体。


こちらを見つめるだけで、全身の感覚が麻痺するような圧。


クロの呼吸が止まった。


「……あ」


声にならない音が漏れる。


頭の中で警鐘が鳴り響く。


逃げろ。


今すぐ逃げろ。


本能が叫んでいる。


けれど。


足が。


動かなかった。


怖い。


怖い。


怖い。


ただ、それだけだった。


どれだけ覚悟しても。


どれだけ誰かを助けたいと思っても。


恐怖そのものを消すことなんてできない。


クロは昔からそうだった。


誰かのために何かをしたい。


そう願う気持ちだけは、誰より強かった。


でも。


肝心な瞬間になると。


身体が先に止まる。


臆病な自分が、いつも前に出てくる。


「……っ」


逃げたい。


逃げなければ。


でも。


この人を置いていけない。


助けたい。


でも。


怖い。


相反する感情が、クロの中でぶつかり合う。


そして。


どちらにも勝てなかった。


怪異が、一歩近づく。


瓦礫を踏み砕く音。


そのたびに、クロの身体が震える。


「……ごめん」


小さな声が漏れた。


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


「ごめんなさい……」


目の前の人へ。


今まで助けてくれた人たちへ。


そして。


何もできない自分自身へ。


「僕……」


声が震える。


「何も……」


その先の言葉は続かなかった。


怪異が腕を振り上げる。


巨大な爪が、視界いっぱいに広がる。


避けられない。


守れない。


動けない。


まただ。


また、自分は――。


その瞬間。


風が吹いた。


轟音。


空気を切り裂く音。


次の瞬間。


クロと怪異の間に。


何かが割り込んでいた。


巨大な爪を受け止める、一つの影。


「……え」


クロは呆然と見上げる。


その背中を。


彼は、知っていた。


「……ギン」


戦場の中で。


その少年だけが。


いつものように。


誰かの前に立っていた。

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