震える手で
「最終防衛計画、発動」
その報せは、神奈川支部・資料保管区画にいたクロのもとにも届いた。
最初は、ただ遠くから聞こえる警報音だった。
いつもとは違う。
何かが起きている。
そう理解するより早く、館内放送から緊迫した声が響いた。
『全職員へ通達。円卓側勢力による大規模侵攻を確認。非戦闘要員は各指示に従い、後方支援へ移行してください』
その瞬間。
資料保管区画の空気が変わった。
誰もが、自分の役割を理解した。
これは、今までの事件とは違う。
世界政府全体を巻き込んだ、本当の戦争なのだと。
「クロくん」
呼びかけに振り向く。
そこには、資料保管区画の上司である境がいた。
普段は落ち着いた態度を崩さない男だった。
だが、今だけは違った。
「後方支援拠点へ移動する。戦闘員以外も、人手が必要になる」
「……僕も、ですか」
クロの声がわずかに震える。
境は少しだけ間を置いてから頷いた。
「君には、君にしかできない仕事がある」
渡されたのは、担架と応急処置キット。
武器ではない。
戦うための力でもない。
ただ、人を助けるための道具だった。
「……分かりました」
クロはそれを受け取った。
怖くないわけではなかった。
むしろ。
怖かった。
今すぐにでも、この場から逃げ出したいと思うほどに。
それでも。
足は、動いた。
神奈川方面・後方支援拠点。
そこは、もはや拠点と呼べる状態ではなかった。
「負傷者、こちらへ!」
「医療班、まだ足りない!」
「担架を追加! 急げ!」
怒号が飛び交う。
遠くでは、怪異の咆哮が響いていた。
大地を揺らすような轟音。
空気を震わせる破壊音。
そのたびに、クロの身体は反射的に強張った。
逃げろ。
頭の奥で、本能が叫ぶ。
ここにいてはいけない。
自分なんかがいても、何も変えられない。
そんな考えが、何度も浮かんだ。
けれど。
「クロくん! こっち!」
「は、はい!」
誰かの声がする。
気づけば、クロの身体は動いていた。
運び込まれる負傷者。
裂けた装甲。
焼け焦げた衣服。
赤く染まった手。
これまで見たことのない光景だった。
それでもクロは、目を逸らさなかった。
逸らせなかった。
目の前にいる人間は、怪物ではない。
敵でもない。
助けを求めている、ただの人だった。
「……大丈夫です」
自分に言い聞かせるように呟く。
「大丈夫。すぐ運びますから」
本当は、自分自身が一番大丈夫ではなかった。
手は震えている。
呼吸は浅い。
足は何度も止まりそうになる。
それでも。
「逃げたら、この人が死ぬ」
その一点だけが、クロを動かしていた。
「クロくん!」
境が駆け寄ってくる。
「次の負傷者、搬送先の確認を頼む!」
「搬送先……?」
「君、記憶力がいいだろ」
境は短く息を吐く。
「名前、所属、容体。全部覚えておいてくれ。後で照合が必要になる」
クロは一瞬、目を瞬かせた。
こんな状況で。
自分の、そんな小さな能力が役に立つのか。
そう思った。
けれど。
「……分かりました」
返事は、思ったより早く出た。
「何人でも覚えます」
震える声だった。
でも。
逃げるための言葉ではなかった。
次々と運び込まれる負傷者。
クロは、その一人一人を見る。
顔。
名前。
所属。
傷の状態。
忘れないように。
絶対に忘れないように。
「……鈴木……」
担架の上の整備班員が、かすかな声を漏らした。
初老の男性だった。
意識はもう朦朧としている。
「名前……鈴木だ……」
「鈴木さん」
クロは顔を近づける。
「はい。聞いています」
「家族に……」
途切れ途切れの声。
「俺は……最後まで……」
その先の言葉は、聞こえなかった。
けれど。
クロには十分だった。
「……伝えます」
震える声で、はっきりと言う。
「鈴木さんが、最後まで戦ったこと。絶対に伝えます」
その言葉に答えるように、男性の表情がわずかに緩んだ。
誰の役にも立たないと思っていた。
臆病で。
弱くて。
戦う力なんて何もない。
そう思っていた自分の記憶力が。
今、この瞬間。
誰かの生きた証を繋いでいる。
それだけで。
ほんの少しだけ。
自分がここにいる意味を感じられた。
「後退!」
突然、外から叫び声が響いた。
「前線維持不能! これ以上は危険だ!」
続いて、激しい衝撃音。
壁が震える。
天井から粉塵が落ちる。
負傷者の数が、さらに増えていく。
状況は悪化していた。
誰もが分かっていた。
この戦いは。
人類側が押されている。
それでも。
クロは立ち止まらなかった。
怖い。
怖くて仕方がない。
今すぐ逃げたい。
それでも。
ここに、自分を必要としている人がいる。
なら。
まだ動ける。
クロは震える両手で、次の担架を掴んだ。
小さな身体に乗るには重すぎる命の重さを。
それでも、確かに受け止めた。
そして。
また一人。
戦場から、生きて帰すために。
クロは走り出した。




