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VERSE0.0-世界政府記録アーカイブ文書001  作者: 甘酒
エピソード7
80/94

震える手で

「最終防衛計画、発動」


その報せは、神奈川支部・資料保管区画にいたクロのもとにも届いた。


最初は、ただ遠くから聞こえる警報音だった。


いつもとは違う。


何かが起きている。


そう理解するより早く、館内放送から緊迫した声が響いた。


『全職員へ通達。円卓側勢力による大規模侵攻を確認。非戦闘要員は各指示に従い、後方支援へ移行してください』


その瞬間。


資料保管区画の空気が変わった。


誰もが、自分の役割を理解した。


これは、今までの事件とは違う。


世界政府全体を巻き込んだ、本当の戦争なのだと。


「クロくん」


呼びかけに振り向く。


そこには、資料保管区画の上司である境がいた。


普段は落ち着いた態度を崩さない男だった。


だが、今だけは違った。


「後方支援拠点へ移動する。戦闘員以外も、人手が必要になる」


「……僕も、ですか」


クロの声がわずかに震える。


境は少しだけ間を置いてから頷いた。


「君には、君にしかできない仕事がある」


渡されたのは、担架と応急処置キット。


武器ではない。


戦うための力でもない。


ただ、人を助けるための道具だった。


「……分かりました」


クロはそれを受け取った。


怖くないわけではなかった。


むしろ。


怖かった。


今すぐにでも、この場から逃げ出したいと思うほどに。


それでも。


足は、動いた。


神奈川方面・後方支援拠点。


そこは、もはや拠点と呼べる状態ではなかった。


「負傷者、こちらへ!」


「医療班、まだ足りない!」


「担架を追加! 急げ!」


怒号が飛び交う。


遠くでは、怪異の咆哮が響いていた。


大地を揺らすような轟音。


空気を震わせる破壊音。


そのたびに、クロの身体は反射的に強張った。


逃げろ。


頭の奥で、本能が叫ぶ。


ここにいてはいけない。


自分なんかがいても、何も変えられない。


そんな考えが、何度も浮かんだ。


けれど。


「クロくん! こっち!」


「は、はい!」


誰かの声がする。


気づけば、クロの身体は動いていた。


運び込まれる負傷者。


裂けた装甲。


焼け焦げた衣服。


赤く染まった手。


これまで見たことのない光景だった。


それでもクロは、目を逸らさなかった。


逸らせなかった。


目の前にいる人間は、怪物ではない。


敵でもない。


助けを求めている、ただの人だった。


「……大丈夫です」


自分に言い聞かせるように呟く。


「大丈夫。すぐ運びますから」


本当は、自分自身が一番大丈夫ではなかった。


手は震えている。


呼吸は浅い。


足は何度も止まりそうになる。


それでも。


「逃げたら、この人が死ぬ」


その一点だけが、クロを動かしていた。


「クロくん!」


境が駆け寄ってくる。


「次の負傷者、搬送先の確認を頼む!」


「搬送先……?」


「君、記憶力がいいだろ」


境は短く息を吐く。


「名前、所属、容体。全部覚えておいてくれ。後で照合が必要になる」


クロは一瞬、目を瞬かせた。


こんな状況で。


自分の、そんな小さな能力が役に立つのか。


そう思った。


けれど。


「……分かりました」


返事は、思ったより早く出た。


「何人でも覚えます」


震える声だった。


でも。


逃げるための言葉ではなかった。


次々と運び込まれる負傷者。


クロは、その一人一人を見る。


顔。


名前。


所属。


傷の状態。


忘れないように。


絶対に忘れないように。


「……鈴木……」


担架の上の整備班員が、かすかな声を漏らした。


初老の男性だった。


意識はもう朦朧としている。


「名前……鈴木だ……」


「鈴木さん」


クロは顔を近づける。


「はい。聞いています」


「家族に……」


途切れ途切れの声。


「俺は……最後まで……」


その先の言葉は、聞こえなかった。


けれど。


クロには十分だった。


「……伝えます」


震える声で、はっきりと言う。


「鈴木さんが、最後まで戦ったこと。絶対に伝えます」


その言葉に答えるように、男性の表情がわずかに緩んだ。


誰の役にも立たないと思っていた。


臆病で。


弱くて。


戦う力なんて何もない。


そう思っていた自分の記憶力が。


今、この瞬間。


誰かの生きた証を繋いでいる。


それだけで。


ほんの少しだけ。


自分がここにいる意味を感じられた。


「後退!」


突然、外から叫び声が響いた。


「前線維持不能! これ以上は危険だ!」


続いて、激しい衝撃音。


壁が震える。


天井から粉塵が落ちる。


負傷者の数が、さらに増えていく。


状況は悪化していた。


誰もが分かっていた。


この戦いは。


人類側が押されている。


それでも。


クロは立ち止まらなかった。


怖い。


怖くて仕方がない。


今すぐ逃げたい。


それでも。


ここに、自分を必要としている人がいる。


なら。


まだ動ける。


クロは震える両手で、次の担架を掴んだ。


小さな身体に乗るには重すぎる命の重さを。


それでも、確かに受け止めた。


そして。


また一人。


戦場から、生きて帰すために。


クロは走り出した。

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