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VERSE0.0-世界政府記録アーカイブ文書001  作者: 甘酒
エピソード6
78/94

代償

甲冑をまとった偉丈夫が、音もなく訓練場へ足を踏み入れる。


その姿を認めた瞬間、場の空気が静かに張り詰めた。


戦闘員たちは自然と動きを止め、道を開ける。


「……毘沙門天殿」


ダージリンが静かに一礼する。


ユズもそれに倣い、姿勢を正した。


ギンだけは少し驚いたように目を丸くし、それから慌てて頭を下げる。


「わざわざ来てくれたんですか」


「様子を見に来ただけだ」


毘沙門天は短く答えると、それ以上は何も言わず、ゆっくりとギンの前まで歩み寄った。


訓練場には、不思議な静けさが満ちていた。


誰も声を発しない。


ただ、その視線だけが二人へ集まっていた。


毘沙門天はギンの全身を静かに眺める。


肩。


腕。


足運び。


呼吸。


戦いの癖。


そのすべてを確かめるような眼差しだった。


やがて、小さく息を吐く。


「……力には、応えられているようだな」


「はい。」


ギンは素直に頷いた。


「まだ慣れてはいません。でも、不思議なくらい身体が動くんです。」


拳をゆっくり握る。


あの日、黄金の林檎を口にしてから。


誰かを守ろうとした瞬間だけ、自分では信じられないほどの力が身体の奥底から湧き上がる。


その感覚は、今もはっきりと残っていた。


「仲間を守れるなら、それで十分です。」


迷いのない答えだった。


その言葉を聞いた毘沙門天は、静かに目を細める。


「……そうか。」


ゆっくりと右手を上げる。


大きな手が、そっとギンの肩へ置かれた。


「その願いに偽りはない。」


その声音は、契約の日と変わらない。


力強く、それでいてどこか温かい。


「だからこそ忘れるな。」


ギンは顔を上げる。


毘沙門天の眼差しは真っ直ぐだった。


「この世に、代償のない力など存在しない。」


その一言だけで、場の空気が少し冷えた。


ユズも。


ダージリンも。


思わず表情を引き締める。


「……代償。」


ギンが小さく繰り返す。


毘沙門天は頷いた。


「契約とは等価交換だ。」


「何かを得るなら、何かを差し出す。」


「それだけは決して変わらぬ理だ。」


ギンは自分の掌を見る。


何も変わっていない。


痛みもない。


身体も軽い。


だからこそ実感が湧かなかった。


「俺は……何を失うんですか。」


その問いに。


毘沙門天は、静かに首を横へ振る。


「今、それを知る必要はない。」


「……。」


「知るべき時が来れば、自ずと知る。」


それだけだった。


それ以上は何も語らない。


沈黙だけを残し、毘沙門天はゆっくりと背を向ける。


数歩進んだところで、その足が止まった。


「一つだけ忠告しておこう。」


誰も息を呑む。


「守りたいという想いは尊い。」


「だが。」


「自らを粗末にすることと、誰かを守ることは、決して同じではない。」


それだけ言い残し、毘沙門天は静かに歩き去っていった。


重々しい扉が閉まる。


その音が響いたあともしばらく、誰も口を開かなかった。


ギンは黙ったまま、自分の手を見つめていた。


掌を握る。


開く。


何も変わらない。


それでも胸の奥には、小さな棘のような違和感だけが残っていた。


「……気にするなって言われても。」


苦笑する。


「無理だよな。」


その独り言に、小さく笑う声が重なった。


「ようやく笑った。」


ユズだった。


ギンが少し照れくさそうに視線を逸らす。


「笑ってねぇよ。」


「笑ってた。」


「笑ってない。」


そんな他愛ない言い合いに、空気が少しだけ和らぐ。


ユズはギンの隣へ並び、訓練場を見渡した。


「でも。」


「無理はしないで。」


「……。」


「って言っても、キミは聞かないんだろうけど。」


ギンは困ったように頭を掻く。


「善処はする。」


「その返事、一番信用できない。」


思わず二人とも小さく笑った。


その様子を見ていたダージリンも、胸の奥で静かに安堵する。


悲しみは消えていない。


エースという穴は、今も誰の中にも残っている。


けれど。


立ち止まったままでは終われない。


その時だった。


「はいはい、休憩の時間ですよー!」


聞き慣れた明るい声が訓練場へ響く。


ココアだった。


大きな箱を抱えながら、こちらへ歩いてくる。


「差し入れ持ってきましたー!」


「解析局なのに、こういう時だけフットワーク軽いよね。」


ユズが笑う。


「失礼だなぁ。」


ココアは頬を膨らませる。


「ちゃんと糖分と水分の補給も、立派なお仕事です。」


そう言って箱を開く。


冷えた飲み物が並んでいた。


ギンが一本取る。


ユズも取る。


ダージリンも静かに手を伸ばす。


ふと。


ギンの手が止まった。


箱の中を見つめる。


以前なら、エースが真っ先に炭酸飲料を取って、


「これ俺のな!」


と笑っていた。


そんな光景が、あまりにも自然に頭へ浮かぶ。


けれど。


もう、その手は伸びてこない。


「……。」


誰も口にはしなかった。


それでも四人とも、同じことを思い出していた。


少しだけ長い沈黙。


やがてギンが缶を開ける。


小さな音が響く。


「……決戦。」


ぽつりとダージリンが呟く。


「もう遠くありません。」


ユズが静かに頷いた。


「円卓も、必ず来る。」


ココアが真剣な表情になる。


「だから、負けられないね。」


三人の視線が自然とギンへ向く。


ギンは缶を握り締めたまま、夕暮れの訓練場を見渡した。


長く伸びる四人の影。


その隣にあるはずだった、もう一つの影。


それは、どこにもなかった。


静かに息を吸う。


そして、小さく口を開いた。


「……今度は。」


誰も言葉を挟まない。


「今度こそ、守る。」


短い一言。


それは誰かへ向けた誓いであり、自分自身へ向けた誓いでもあった。


ユズが小さく頷く。


ココアも微笑む。


ダージリンは静かに目を閉じた。


失ったものは、戻らない。


その事実は、これから先も変わることはない。


それでも。


その想いを胸に抱いたまま、前へ進むことはできる。


夕焼けが訓練場を朱く染める。


やがて訪れる決戦の日を待つように、空は静かに暮れていった。


そして、その「然るべき時」は、誰の願いも待つことなく、すぐそこまで迫っていた。

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