代償
甲冑をまとった偉丈夫が、音もなく訓練場へ足を踏み入れる。
その姿を認めた瞬間、場の空気が静かに張り詰めた。
戦闘員たちは自然と動きを止め、道を開ける。
「……毘沙門天殿」
ダージリンが静かに一礼する。
ユズもそれに倣い、姿勢を正した。
ギンだけは少し驚いたように目を丸くし、それから慌てて頭を下げる。
「わざわざ来てくれたんですか」
「様子を見に来ただけだ」
毘沙門天は短く答えると、それ以上は何も言わず、ゆっくりとギンの前まで歩み寄った。
訓練場には、不思議な静けさが満ちていた。
誰も声を発しない。
ただ、その視線だけが二人へ集まっていた。
毘沙門天はギンの全身を静かに眺める。
肩。
腕。
足運び。
呼吸。
戦いの癖。
そのすべてを確かめるような眼差しだった。
やがて、小さく息を吐く。
「……力には、応えられているようだな」
「はい。」
ギンは素直に頷いた。
「まだ慣れてはいません。でも、不思議なくらい身体が動くんです。」
拳をゆっくり握る。
あの日、黄金の林檎を口にしてから。
誰かを守ろうとした瞬間だけ、自分では信じられないほどの力が身体の奥底から湧き上がる。
その感覚は、今もはっきりと残っていた。
「仲間を守れるなら、それで十分です。」
迷いのない答えだった。
その言葉を聞いた毘沙門天は、静かに目を細める。
「……そうか。」
ゆっくりと右手を上げる。
大きな手が、そっとギンの肩へ置かれた。
「その願いに偽りはない。」
その声音は、契約の日と変わらない。
力強く、それでいてどこか温かい。
「だからこそ忘れるな。」
ギンは顔を上げる。
毘沙門天の眼差しは真っ直ぐだった。
「この世に、代償のない力など存在しない。」
その一言だけで、場の空気が少し冷えた。
ユズも。
ダージリンも。
思わず表情を引き締める。
「……代償。」
ギンが小さく繰り返す。
毘沙門天は頷いた。
「契約とは等価交換だ。」
「何かを得るなら、何かを差し出す。」
「それだけは決して変わらぬ理だ。」
ギンは自分の掌を見る。
何も変わっていない。
痛みもない。
身体も軽い。
だからこそ実感が湧かなかった。
「俺は……何を失うんですか。」
その問いに。
毘沙門天は、静かに首を横へ振る。
「今、それを知る必要はない。」
「……。」
「知るべき時が来れば、自ずと知る。」
それだけだった。
それ以上は何も語らない。
沈黙だけを残し、毘沙門天はゆっくりと背を向ける。
数歩進んだところで、その足が止まった。
「一つだけ忠告しておこう。」
誰も息を呑む。
「守りたいという想いは尊い。」
「だが。」
「自らを粗末にすることと、誰かを守ることは、決して同じではない。」
それだけ言い残し、毘沙門天は静かに歩き去っていった。
重々しい扉が閉まる。
その音が響いたあともしばらく、誰も口を開かなかった。
ギンは黙ったまま、自分の手を見つめていた。
掌を握る。
開く。
何も変わらない。
それでも胸の奥には、小さな棘のような違和感だけが残っていた。
「……気にするなって言われても。」
苦笑する。
「無理だよな。」
その独り言に、小さく笑う声が重なった。
「ようやく笑った。」
ユズだった。
ギンが少し照れくさそうに視線を逸らす。
「笑ってねぇよ。」
「笑ってた。」
「笑ってない。」
そんな他愛ない言い合いに、空気が少しだけ和らぐ。
ユズはギンの隣へ並び、訓練場を見渡した。
「でも。」
「無理はしないで。」
「……。」
「って言っても、キミは聞かないんだろうけど。」
ギンは困ったように頭を掻く。
「善処はする。」
「その返事、一番信用できない。」
思わず二人とも小さく笑った。
その様子を見ていたダージリンも、胸の奥で静かに安堵する。
悲しみは消えていない。
エースという穴は、今も誰の中にも残っている。
けれど。
立ち止まったままでは終われない。
その時だった。
「はいはい、休憩の時間ですよー!」
聞き慣れた明るい声が訓練場へ響く。
ココアだった。
大きな箱を抱えながら、こちらへ歩いてくる。
「差し入れ持ってきましたー!」
「解析局なのに、こういう時だけフットワーク軽いよね。」
ユズが笑う。
「失礼だなぁ。」
ココアは頬を膨らませる。
「ちゃんと糖分と水分の補給も、立派なお仕事です。」
そう言って箱を開く。
冷えた飲み物が並んでいた。
ギンが一本取る。
ユズも取る。
ダージリンも静かに手を伸ばす。
ふと。
ギンの手が止まった。
箱の中を見つめる。
以前なら、エースが真っ先に炭酸飲料を取って、
「これ俺のな!」
と笑っていた。
そんな光景が、あまりにも自然に頭へ浮かぶ。
けれど。
もう、その手は伸びてこない。
「……。」
誰も口にはしなかった。
それでも四人とも、同じことを思い出していた。
少しだけ長い沈黙。
やがてギンが缶を開ける。
小さな音が響く。
「……決戦。」
ぽつりとダージリンが呟く。
「もう遠くありません。」
ユズが静かに頷いた。
「円卓も、必ず来る。」
ココアが真剣な表情になる。
「だから、負けられないね。」
三人の視線が自然とギンへ向く。
ギンは缶を握り締めたまま、夕暮れの訓練場を見渡した。
長く伸びる四人の影。
その隣にあるはずだった、もう一つの影。
それは、どこにもなかった。
静かに息を吸う。
そして、小さく口を開いた。
「……今度は。」
誰も言葉を挟まない。
「今度こそ、守る。」
短い一言。
それは誰かへ向けた誓いであり、自分自身へ向けた誓いでもあった。
ユズが小さく頷く。
ココアも微笑む。
ダージリンは静かに目を閉じた。
失ったものは、戻らない。
その事実は、これから先も変わることはない。
それでも。
その想いを胸に抱いたまま、前へ進むことはできる。
夕焼けが訓練場を朱く染める。
やがて訪れる決戦の日を待つように、空は静かに暮れていった。
そして、その「然るべき時」は、誰の願いも待つことなく、すぐそこまで迫っていた。




