第7話 壁の向こう側
腕をつかまれたまま、ギンはひたすら走っていた。
行き先も、理由も分からない。
分かっているのは、後ろを振り返ってはいけないということだけだった。
振り返れば、また見てしまう。
父の背中に爪が突き立てられた瞬間を。
母が声にならない悲鳴を上げた瞬間を。
――考えるな。
ギンは何度も自分に言い聞かせる。
今考えたら、足が止まる。
止まったら、きっと二度と前へ進めない。
隣を走る少女――ユズの横顔には、汗ひとつ浮かんでいなかった。
息も乱れていない。
まるで散歩でもしているかのような足取りで、ただギンの腕を引いて走っている。
その落ち着きが、今のギンには少しだけ腹立たしかった。
路地は次第に細くなり、やがて三方をコンクリートの壁に囲まれた行き止まりへとたどり着く。
「……おい。」
息を切らしながら声を絞り出す。
「行き止まりだぞ。」
ユズは振り返らない。
懐から一枚の札を取り出す。
白い和紙には、見たこともない朱色の文字が描かれていた。
「下がってて。」
「……は?」
短く告げると、ユズは何もない空間へ札を掲げた。
そこにあるのは、ただのコンクリートの壁。
隠れる場所も、抜け道もない。
完全な行き止まり。
ユズの唇が、小さく動く。
声にならないほど短い言葉。
次の瞬間だった。
目の前の空間が、音もなく裂けた。
まるで薄い紙に切れ目を入れたように、壁そのものが左右へ開いていく。
その向こうに広がっていたのは、路地裏ではなかった。
薄暗い岩肌。
ひんやりとした空気。
奥へと続く、静かな通路。
「……は?」
思考が止まる。
壁の向こうに、別の場所がある。
そんなことがあるはずがない。
夢だ。
そう思おうとした。
けれど、裂け目から流れ込んでくる冷たい空気は、あまりにも現実だった。
「説明はあと。」
「いや、待――」
「うるさい。」
ユズはギンの腕を引いた。
「舌噛むよ。」
「え――」
抵抗する暇もなく、身体が前へ引き込まれる。
視界が真っ白に染まる。
そして背後で、裂け目は最初から存在しなかったかのように、静かに閉じた。




