遠くの危険
孤島の研究施設が壊滅してから、クロは世界政府本部・資料保管区画へ配置転換になった。
恐竜の血清を管理していた日々は終わり、今は事件記録や古い報告書を整理する毎日だ。
仕事内容は変わった。
けれど、自分の立ち位置はあまり変わらない。
「クロくん、この棚の整理もお願いできる?」
資料の束を抱えた上司の境が、申し訳なさそうに声をかける。
「あっ、はい!」
クロはすぐに立ち上がった。
「任せてください」
重い箱を運ぶこと。
高い棚の整理。
単純だけれど人手が必要な仕事。
任されるのは、いつもそんな役割だった。
それでも、不満はない。
誰かに「お願い」と言ってもらえるだけで、自分にもここにいる理由がある気がした。
静かな保管区画には、紙をめくる音とキーボードを叩く音だけが響いている。
そんな穏やかな時間は、突然終わった。
赤い警報灯が一斉に点灯する。
遅れて、低い警報音が施設全体を震わせた。
「……え?」
思わず手が止まる。
壁面モニターには、見慣れない文字が表示されていた。
《次元逸脱反応 複数箇所同時検出》
意味が理解できない。
けれど。
胸の奥だけが、理由もなくざわついていた。
「地震……?」
違う。
床は揺れていない。
それなのに、空気そのものが軋むような奇妙な圧迫感が全身を包んでいた。
「みんな落ち着いて!」
境の声が区画中に響く。
「資料保管区画は指定避難経路へ! 急いで!」
職員たちが一斉に動き始める。
クロも避難しようとして――足を止めた。
一つの棚が、大きく傾いている。
大量の資料が今にも雪崩のように崩れ落ちそうだった。
何十年も積み重ねられてきた事件記録。
失われれば、二度と戻らない。
考えるより先に、身体が動いていた。
「危ない!」
棚へ駆け寄り、崩れ始めた資料を必死に抱き止める。
紙の束が腕へ落ちる。
棚の角が肩をかすめ、鈍い痛みが走った。
それでも手は離さない。
「クロくん!」
境が叫ぶ。
「早く逃げろ! 危険だ!」
「で、でも……!」
息を切らしながら資料を抱え直す。
「これ……大事な記録、ですよね……!」
情けないくらい震えた声だった。
怖くないわけがない。
足は震えている。
心臓は壊れそうなほど鳴っている。
それでも。
目の前で失われようとしているものを、見捨てることだけはできなかった。
やがて。
奇妙な圧迫感は、何事もなかったかのように消えていく。
赤い警報灯だけが、静かに点滅を続けていた。
「……助かった」
境が崩れかけた棚を見つめ、小さく息を吐く。
「ありがとう、クロくん」
「い、いえ……」
クロは慌てて首を振った。
「近くにいただけですから」
そう答えながら、そっと腕をさする。
少し痛む。
でも、その程度だ。
周囲を見渡せば、大切な資料はほとんど無事だった。
それだけで十分だった。
――なのに。
胸の奥のざわめきだけは消えない。
窓の向こうを見る。
厚い雲に覆われた空。
世界のどこかで、今この瞬間も誰かが戦っている。
そんな気がしてならなかった。
「……大丈夫、かな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
ただ。
その一言だけが、小さく零れた。
このときのクロはまだ知らない。
遠く離れた神奈川支部で、一人の少年が、かけがえのない存在を失おうとしていることを。




