残された約束
緊急報告を送信してからというもの、対神交渉部門は騒然としていた。
端末は休むことなく鳴り続ける。
本部からの確認要請。
各支部からの問い合わせ。
そして、神々との協定を結んでいた部署からの悲痛な報告。
「結界維持率、低下。」
「災害予知網、一部機能停止。」
「高位神格との通信途絶。」
次々と届く文字列が、円卓の離反が決して政治的な出来事ではないことを物語っていた。
世界政府そのものが、確かに力を失い始めている。
ダージリンは一つひとつ応答を返しながら、不意に手を止めた。
まだ確認していないことがある。
円卓に属さない神々。
独立した立場を貫く者たちは、どう動くのか。
彼女は端末を操作し、一柱ずつ通信を送っていく。
応答のない神もいた。
沈黙を選んだ神もいた。
だが、やがて聞き慣れた声が返る。
『……私だ。』
低く落ち着いた声。
毘沙門天だった。
「毘沙門天殿。」
ダージリンは静かに姿勢を正す。
「円卓の件は、すでにご存じでしょうか。」
『知らぬはずがあるまい。』
短い返答。
しかし、その声音は少しも揺らいでいなかった。
「確認させてください。」
「貴殿は、円卓と行動を共にされるおつもりですか。」
しばし沈黙が流れる。
やがて、毘沙門天は静かに笑った。
『私は私だ。』
『円卓でもなければ、誰かの旗の下にも立たぬ。』
『守ると決めた者を守る。』
『それだけだ。』
ダージリンは胸の奥に張り詰めていたものが、少しだけほどけるのを感じた。
『そなたとの協定も変わらぬ。』
『交わした約束は、まだ終わっておらぬ。』
「……ありがとうございます。」
その一言だけで十分だった。
通信が切れる。
静かな執務室で、ダージリンは端末をゆっくりと下ろした。
全ての神が去ったわけではない。
まだ残っている約束がある。
その事実だけが、今は何より心強かった。
ほどなくして、室長から呼び出しがかかる。
室長室には重苦しい空気が漂っていた。
机の上には、緊急報告書の束が積み重なっている。
室長はその一枚を閉じ、ゆっくり顔を上げた。
「独立系の神々は。」
「一部が協力継続の意思を示しました。」
「はい。」
「毘沙門天をはじめ、数柱との協定は維持されています。」
「そうか。」
室長は小さく頷く。
だが、その表情は晴れない。
「失ったものが大きすぎる。」
その一言に尽きた。
戦闘。
結界。
予知。
災害対応。
神々が担ってきた、人類では代替できない領域。
その多くが、一夜で失われた。
「宣戦布告。」
「時期は依然として不明か。」
「はい。」
「『然るべき時』とだけ。」
室長は静かに目を閉じる。
「いつ来るか分からない戦いほど、厄介なものはない。」
しばらく沈黙が続いた。
やがて室長は口を開く。
「ダージリン。」
「はい。」
「引き続き調査を続けろ。」
「神々が、なぜこの選択をしたのか。」
「何が彼らを変えたのか。」
「そこを見失うな。」
「承知しました。」
ダージリンは深く頭を下げた。
部屋を出ようとした、その時。
室長の声が背中に届く。
「……ユズには、まだ話すな。」
足が止まる。
振り返ることなく答えた。
「承知しております。」
扉が静かに閉まる。
廊下には、いつもと変わらない照明が灯っていた。
職員たちは行き交い、通信が飛び交う。
日常は、まだそこにある。
だが、その日常を支えていた土台は、確かに揺らぎ始めていた。
ダージリンは白いマントの襟元を整える。
契約は、永遠ではない。
神々はそう言った。
その言葉は今も胸に刺さったままだ。
それでも。
だからこそ。
交わした約束を信じ続ける者がいなければ、世界はもっと早く壊れてしまう。
ダージリンは静かに前を向く。
まだ終わっていない約束がある。
守るべき信頼がある。
そのために、自分は交渉官であり続ける。
そう胸に刻み、彼女は静かに歩き出した。
その先で待つ戦いが、世界の命運を左右することを、この時の彼女はまだ知らなかった。




