信頼と警戒
室長室は、支部の他の区画よりも静かだった。
照明は一段落とされ、壁掛け時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいる。
ダージリンは机の前へ立ち、一冊の報告書を差し出した。
「円卓に関する追加報告です。」
室長は無言で受け取り、静かにページをめくる。
紙が擦れる音だけが室内に響いた。
ダージリンは姿勢を崩さず、その様子を待つ。
やがて室長の指が止まる。
「……半年前からか。」
「はい。」
短いやり取り。
それだけで十分だった。
「複数派閥の接触回数が急増しています。
加えて、一部記録には説明のつかない欠落が見られました。」
「情報解析局は。」
「断定はしていません。
ただ、事件B・事件Cで確認された異常との類似性を指摘しています。」
室長は視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
「……もっと早く気付けなかったか。」
責める声音ではない。
自分自身へ向けた問いのようにも聞こえた。
「円卓内部の動きは、協定上こちらから干渉できません。」
ダージリンは淡々と答える。
「接触そのものを監視することは、協定違反となります。」
「分かっている。」
室長は静かに頷いた。
「規則は理解している。」
そう言ってから、少しだけ苦笑する。
「だが、規則どおり動いた結果がこれでは……組織としては褒められた話ではない。」
ダージリンは何も返さなかった。
反論はできる。
だが、反論する気にはならなかった。
沈黙が流れる。
やがて室長は報告書を閉じ、不意に問い掛けた。
「ダージリン。」
「はい。」
「君は、神々を信じるか。」
突然の問いだった。
しかし、ダージリンは迷わなかった。
「信じます。」
即答だった。
「正しく言えば、契約を信じています。」
「契約。」
「神々も、人も。
契約を交わした以上、その責任を果たす義務があります。
だから私は、契約を前提に神々を信頼しています。」
室長は小さく目を伏せる。
「……君らしい答えだ。」
その声には、どこか寂しさが混じっていた。
「私は違いますか。」
「私は――」
室長は言葉を選ぶように口を閉ざす。
数秒後、ようやく続けた。
「神々を信用したくないわけではない。」
「だが、信じ切ることもできない。」
その一言だけだった。
理由は語らない。
それでもダージリンには十分だった。
思い浮かぶのは、一人の少女。
ユズ。
巫女姫の血を引きながら、神々と深く関わる立場から遠ざけられてきた少女。
その判断を下したのは、目の前の男だ。
理由までは知らない。
知ろうとも思わない。
だが。
あれは組織の判断ではなく、一人の父親の願いだったのではないか。
そんな考えが、一瞬だけ胸をよぎる。
「……失礼ながら。」
ダージリンは静かに口を開いた。
「室長は、人を守ろうとしておられるのですね。」
室長は答えなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、視線だけを窓の外へ向ける。
それが答えだった。
やがて室長は表情を戻し、報告書を机へ置いた。
「調査は継続してくれ。」
「はい。」
「ただし、円卓を刺激するな。」
声色が指揮官のものへ戻る。
「彼らに疑念を抱いていると悟られれば、それだけで協定は揺らぐ。」
「承知しております。」
「もし本当に何かが起きるなら。」
室長はまっすぐダージリンを見据えた。
「最初に異変へ気付けるのは君だ。」
「円卓と最も近い場所にいるのだから。」
その言葉に込められていたのは命令ではない。
信頼だった。
そして、それ以上に重い責任だった。
ダージリンは深く一礼する。
「必ず。」
その一言だけを残し、室長室を後にした。
廊下を歩きながら、先ほどの室長の表情が脳裏を離れない。
組織を率いる指揮官。
そして、一人の父親。
ほんの一瞬だけ、その二つの顔が重なって見えた。
自分は誰かを、あのような眼差しで守ろうと思ったことがあるだろうか。
答えは浮かばない。
ただ、今の自分にできることは一つだった。
円卓を見続けること。
小さな違和感も見逃さないこと。
それが契約を守る者としての務めだと、ダージリンは信じていた。
――その務めが、これから訪れる破局を止めるには、あまりにも無力であることを。
まだ、彼女は知らなかった。




