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VERSE0.0-世界政府記録アーカイブ文書001  作者: 甘酒
エピソード5
60/94

協定と契約

円卓での定例会議を終えたダージリンは、その足で神奈川支部を訪れていた。


会議内容の報告と、今期の協定更新に関する書類提出。


対神交渉部門の仕事としては、ごくありふれた日常業務だった。


地下支部の廊下には、白い照明が規則正しく並んでいる。


行き交う職員たちの足音。


遠くで鳴る通信端末の電子音。


紙をめくる音。


すべてが整然と流れ、世界政府の日常を形作っていた。


面談室の前で室長を待っていると、不意に背後から声が飛んできた。


「――あんた、誰?」


振り返る。


そこに立っていたのは、見覚えのない少年だった。


銀色の短髪。


赤い瞳。


制服はどこか着崩されているが、不思議とだらしなくは見えない。


人を警戒しているようでいて、好奇心のほうが勝っている。


そんな視線だった。


「対神交渉部門所属、ダージリンだ」


簡潔に名乗る。


「対神……交渉?」


少年は首を傾げた。


「神様と話す仕事ってこと?」


「その認識で差し支えない」


あまりにあっさり返されたせいか、少年は少しだけ面食らったような表情を浮かべた。


しかし興味は尽きないらしい。


一歩近づき、さらに問いを重ねる。


「神様ってさ、本当に契約とかするの?


マンガとかでよく見るけど」


素朴な疑問だった。


世界政府では、必要以上の情報は教えない。


神々との関係もその一つだ。


現場職員が詳しく知らないことは珍しくない。


本来なら、「機密事項です」の一言で終わる話でもあった。


……だが。


なぜだろう。


目の前の少年には、その言葉を返す気になれなかった。


「正確には、二種類ある」


ダージリンは書類挟みを持ち直し、静かに向き直る。


「一つは『協定』。


私たち交渉官が神々と結ぶ約束だ。」


「約束?」


「互いの不可侵。


情報交換。


必要に応じた加護の要請。


世界政府と神々が協力関係を維持するための取り決めだ。


神の力そのものを授かるものではない。」


「なるほど。」


少年は素直に頷いた。


「じゃあ、もう一つは?」


ダージリンは一瞬だけ言葉を選ぶ。


そして静かに続けた。


「……『契約の儀式』だ。」


廊下の空気が、ほんの少しだけ重くなる。


「これは、人が神そのものの力をその身に宿すための儀式。」


「そんなこと、本当にできるのか?」


「できる。」


即答だった。


「ただし、代償は等価では済まない。」


少年の表情から笑みが消える。


「儀式には、術者が最も信頼する者の魂が必要になる。」


「……魂?」


「その魂から生まれる『黄金の林檎』を媒介とし、神との契約を結ぶ。」


そこまで話すと、ダージリンは言葉を切った。


それ以上は語らない。


語るべきではない。


契約の儀式とは、知識ではなく覚悟を必要とするものだからだ。


「つまり……」


少年は小さく息を吐く。


「めちゃくちゃ重いってことか。」


「その認識で間違っていない。」


ダージリンは頷く。


「だから私は契約を結ばない。


結んでいるのは協定だけだ。」


そう言って、自らの両手へ視線を落とす。


白い手袋に包まれた手。


多くの神々と握手を交わしてきた手。


しかし、そのどれもが契約ではない。


交渉官として、人と神の距離を保ち続けるための手だった。


「……なんか。」


少年は苦笑した。


「急に世界が重くなった気分。」


「聞いたのはそなただ。」


「それはそう。」


思わず笑ってしまう少年。


その反応を見て、ダージリンの口元も、ごくわずかだけ緩んだ。


自分でも気づかないほど、小さく。


その時だった。


「ギン、こんなところで何してるの?」


廊下の向こうから少女の声が響く。


巫女装束をまとった少女。


その後ろには、室長が歩いていた。


「あ、ユズ。」


少年――ギンは軽く手を挙げる。


「ちょっと話してただけ。」


「客人?」


ユズはダージリンへ視線を向け、丁寧に一礼した。


ダージリンも同じように礼を返す。


「対神交渉部門のダージリンです。


室長への定例報告に参りました。」


「あ、そうだったんですね。


父が――」


一瞬だけ言葉が止まる。


「……室長がお待たせしてすみません。」


その言い直しに合わせるように、室長の眉がわずかに動いた。


ほんの一瞬。


それだけだった。


だが、ダージリンは見逃さなかった。


――やはり。


室長は娘を神々の世界から遠ざけている。


理由までは知らない。


知る必要もない。


しかし、その判断が意図的なものであることだけは理解していた。


それ以上踏み込むことはしない。


交渉官の仕事ではないからだ。


「では、室長。」


「ああ。行こう。」


二人は並んで面談室へ向かう。


背後では、ギンとユズが何気ない会話を交わしていた。


扉をくぐる直前。


ダージリンは一度だけ振り返る。


銀髪の少年は、先ほどまで契約の儀式について話していたとは思えないほど、屈託なく笑っていた。


その姿は、ごく普通の現場職員にしか見えない。


――だが。


毘沙門天が口にした、「妙な匂いを纏った少年」という言葉が、不意に脳裏をよぎる。


ダージリンは小さく首を振った。


考えすぎだ。


そう自分に言い聞かせると、静かに面談室の扉を閉めた。

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