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VERSE0.0-世界政府記録アーカイブ文書001  作者: 甘酒
エピソード5
58/94

規律の先にあるもの

石段は、数えるまでもなく百八段あった。


春も夏も、雨の日も雪の日も。


ダージリンは毎年欠かさず、この石段を上っている。


数えないのは、数える必要がないからだ。


一段目から百八段目まで、足を置く位置も、呼吸を整える間合いも、身体がすでに覚えている。


白いマントの裾が、山を吹き抜ける風に静かに揺れた。


革手袋に包まれた手には、黒い書類挟み。


その中には、今年度の協定更新書が一部。折れも汚れもない紙束は、彼女の性格そのものを映したように、寸分の乱れもなく収められていた。


石段を上りきると、小さな社が姿を現す。


線香の香りが漂う境内。


その奥には、それよりもなお古い匂いがあった。


鉄。


土。


そして、幾千幾万の戦を越えてなお消えることのない、武神の気配。


「――遅かったな」


社の奥から声が響く。


姿は見えない。


それでも、その場にいることだけは疑いようがなかった。


「定刻の五分前です」


ダージリンは静かに一礼し、声のした方角へ向き直る。


書類挟みを両手で持ち直す動作にも、一切の無駄はない。


「そなたの定刻は、いつも五分前だ。人間にしては律儀すぎる」


「契約とは、互いを信用できぬからこそ結ぶものです。定刻を違えぬことは、その最低限の証明にすぎません」


ふっと低い笑い声が漏れた。


呆れているのか。


面白がっているのか。


長年この声と向き合ってきたにもかかわらず、ダージリンには未だ判別できない。


そのことが、ほんの少しだけ悔しかった。


やがて、社の奥から一人の神が姿を現す。


甲冑をまとった偉丈夫。


片手には宝塔。


もう片方には、幾度もの戦を潜り抜けてきたことを物語る矛。


その威容だけなら、まさしく戦神。


しかし、その双眸には敵を威圧する鋭さよりも、戦場を見届け続けた者だけが宿す静かな慈悲が宿っていた。


「協定の更新書だな。よこせ」


「はい。内容は例年どおりです。世界政府は貴殿の加護を受け、その対価として――」


「わかっている」


毘沙門天は苦笑交じりに言葉を遮った。


「毎年同じ文言を、毎年同じ声音で読み上げる。それもまた、そなたの律儀さか」


矛を静かに地へ立てる。


受け取った書類へ視線を落とす仕草は、読むというより、確かめるようだった。


一文字たりとも見落とさぬまま最後まで目を通すと、小さく頷く。


「異存はない。今年も、そなたと世界政府を信じよう」


「感謝いたします」


ダージリンは深々と頭を下げた。


角度も。


間も。


手の位置も。


訓練どおりの、寸分違わぬ礼だった。


本当は、このあと何か一言添えるべきなのだろう。


現場の交渉官たちなら、軽口の一つでも交えながら場を和ませる。


そのほうが、信頼は築きやすい。


頭では理解している。


だが、できない。


礼を尽くすことと、心を開くこと。


その境界が、ダージリンには今もよく分からなかった。


だから今日も、形式だけは誰よりも正確に守る。


それが、自分にできる唯一の誠意だった。


書類を丁寧に仕舞い、社を後にしようとしたその時だった。


懐の端末が、小さく震える。


画面には円卓からの通知が表示されていた。


――本日十四時、円卓定例会議招集。


ここまでは、いつもどおり。


だが、その下に続く一文を見た瞬間、ダージリンの眉がわずかに寄る。


――全代表、出席必須。


その七文字だけが、不自然だった。


代表には本来、裁量による欠席が認められている。


少なくとも、この数年で全員への出席義務が課された記憶はない。


何かが違う。


そう感じるには十分すぎるほど、小さな異変だった。


ダージリンは端末を静かに閉じ、社の奥へもう一度視線を向ける。


しかし、そこにはもう誰の姿もなかった。


武神の気配だけが、静かに社へ溶け込んでいる。


石段を下りながら、彼女は胸の内で小さく呟いた。


――律儀さだけが、私の取り柄だ。


ならば今日も。


定刻を違えぬこと。


それだけは、決して崩さない。


白いマントを翻し、ダージリンは円卓へ向かう。


まだ、この時の彼女は知らない。


「全代表出席必須」。


そのたった七文字が、世界政府と神々の長き信頼に終止符を打つ、始まりの合図だったことを。

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