規律の先にあるもの
石段は、数えるまでもなく百八段あった。
春も夏も、雨の日も雪の日も。
ダージリンは毎年欠かさず、この石段を上っている。
数えないのは、数える必要がないからだ。
一段目から百八段目まで、足を置く位置も、呼吸を整える間合いも、身体がすでに覚えている。
白いマントの裾が、山を吹き抜ける風に静かに揺れた。
革手袋に包まれた手には、黒い書類挟み。
その中には、今年度の協定更新書が一部。折れも汚れもない紙束は、彼女の性格そのものを映したように、寸分の乱れもなく収められていた。
石段を上りきると、小さな社が姿を現す。
線香の香りが漂う境内。
その奥には、それよりもなお古い匂いがあった。
鉄。
土。
そして、幾千幾万の戦を越えてなお消えることのない、武神の気配。
「――遅かったな」
社の奥から声が響く。
姿は見えない。
それでも、その場にいることだけは疑いようがなかった。
「定刻の五分前です」
ダージリンは静かに一礼し、声のした方角へ向き直る。
書類挟みを両手で持ち直す動作にも、一切の無駄はない。
「そなたの定刻は、いつも五分前だ。人間にしては律儀すぎる」
「契約とは、互いを信用できぬからこそ結ぶものです。定刻を違えぬことは、その最低限の証明にすぎません」
ふっと低い笑い声が漏れた。
呆れているのか。
面白がっているのか。
長年この声と向き合ってきたにもかかわらず、ダージリンには未だ判別できない。
そのことが、ほんの少しだけ悔しかった。
やがて、社の奥から一人の神が姿を現す。
甲冑をまとった偉丈夫。
片手には宝塔。
もう片方には、幾度もの戦を潜り抜けてきたことを物語る矛。
その威容だけなら、まさしく戦神。
しかし、その双眸には敵を威圧する鋭さよりも、戦場を見届け続けた者だけが宿す静かな慈悲が宿っていた。
「協定の更新書だな。よこせ」
「はい。内容は例年どおりです。世界政府は貴殿の加護を受け、その対価として――」
「わかっている」
毘沙門天は苦笑交じりに言葉を遮った。
「毎年同じ文言を、毎年同じ声音で読み上げる。それもまた、そなたの律儀さか」
矛を静かに地へ立てる。
受け取った書類へ視線を落とす仕草は、読むというより、確かめるようだった。
一文字たりとも見落とさぬまま最後まで目を通すと、小さく頷く。
「異存はない。今年も、そなたと世界政府を信じよう」
「感謝いたします」
ダージリンは深々と頭を下げた。
角度も。
間も。
手の位置も。
訓練どおりの、寸分違わぬ礼だった。
本当は、このあと何か一言添えるべきなのだろう。
現場の交渉官たちなら、軽口の一つでも交えながら場を和ませる。
そのほうが、信頼は築きやすい。
頭では理解している。
だが、できない。
礼を尽くすことと、心を開くこと。
その境界が、ダージリンには今もよく分からなかった。
だから今日も、形式だけは誰よりも正確に守る。
それが、自分にできる唯一の誠意だった。
書類を丁寧に仕舞い、社を後にしようとしたその時だった。
懐の端末が、小さく震える。
画面には円卓からの通知が表示されていた。
――本日十四時、円卓定例会議招集。
ここまでは、いつもどおり。
だが、その下に続く一文を見た瞬間、ダージリンの眉がわずかに寄る。
――全代表、出席必須。
その七文字だけが、不自然だった。
代表には本来、裁量による欠席が認められている。
少なくとも、この数年で全員への出席義務が課された記憶はない。
何かが違う。
そう感じるには十分すぎるほど、小さな異変だった。
ダージリンは端末を静かに閉じ、社の奥へもう一度視線を向ける。
しかし、そこにはもう誰の姿もなかった。
武神の気配だけが、静かに社へ溶け込んでいる。
石段を下りながら、彼女は胸の内で小さく呟いた。
――律儀さだけが、私の取り柄だ。
ならば今日も。
定刻を違えぬこと。
それだけは、決して崩さない。
白いマントを翻し、ダージリンは円卓へ向かう。
まだ、この時の彼女は知らない。
「全代表出席必須」。
そのたった七文字が、世界政府と神々の長き信頼に終止符を打つ、始まりの合図だったことを。




