第5話 生きろ
地獄だった。
さっきまで人が歩いていた道は、悲鳴で埋め尽くされていた。
誰もが我先にと逃げ惑い、転び、叫び、助けを求める。
ガラスの割れる音。
金属が倒れる音。
獣のようなうめき声。
そして――。
人の悲鳴。
「ギン!!」
父の怒鳴り声が響いた。
「母さんと逃げろ!!」
「あなたも早く!」
母が叫び返す。
「俺は後ろを見る!」
父は足元に転がっていた鉄パイプを拾い上げると、ためらうことなく化け物たちへ駆け出した。
「父さん!」
ギンの声は届かない。
父の鉄パイプが振り下ろされる。
一体。
また一体。
化け物は地面へ倒れ込む。
――いける。
そう思った。
だが。
「後ろ!!」
ギンは叫んだ。
父が振り返る。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
別の化け物が飛びかかる。
「ぐっ……!」
「あなた!!」
母が駆け出す。
「ダメだ!!」
叫んでも、届かない。
母の姿も、次々と押し寄せる化け物の群れに飲み込まれていく。
助けなきゃ。
走らなきゃ。
今すぐ。
そう思っているのに。
足が動かない。
(動け。)
(早く。)
(助けないと。)
(お願いだ。)
(動いてくれ。)
震えている。
自分の足が。
まるで誰かのものになってしまったみたいに、一歩も前へ出ない。
頭の中で、自分自身の声が悲鳴のように響く。
逃げろ。逃げろ。逃げろ。
拳を強く握る。
爪が手のひらに食い込む。
それでも。
動けない。
「ギン!!!」
父が、最後の力を振り絞るように叫んだ。
「生きろ!!!」
その声が耳に届いた瞬間。
視界が涙で滲んだ。
父の姿も。
母の姿も。
もう、よく見えない。
聞こえるのは悲鳴だけだった。
世界から音が遠ざかっていく。
何も考えられない。
何もできない。
ただ、立ち尽くすことしかできなかった。
やがて、一体の化け物がゆっくりとこちらを向く。
濁った瞳が、ギンを捉えた。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと近づいてくる。
逃げろ。逃げろ。逃げろ。
それでも、足は動かない。
化け物は目の前で立ち止まる。
血に濡れた腕が、ゆっくりと伸びる。
大きく開いた口から、生ぬるい息が漏れた。
ギンは、ただ見つめることしかできなかった。




